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シカゴ連銀総裁:金利維持「長期はFOMC3-4回分」

シカゴ連銀総裁:金利維持「長期はFOMC3-4回分」-CNBC
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2月26日(ブルームバーグ):シカゴ連銀のエバンス総裁は、政策金利が長期にわたって低水準で据え置かれるだろうと述べた。同総裁は米経済専門局CNBCのインタビューに応じ、長期とは連邦公開市場委員会(FOMC)の会合3-4回分だと説明した。

★逆説的にとれば、近い将来の利上げ示唆とも取れる発言となる。
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石油を支配して世界を我が物にしてきた連中も終わります。合掌。

マイヤーの水を燃やす技術を完成させた
日本人がいる!!
GhostRiponさん(HN)その人だ!!
有言実行、とうとう『日本製品』を作り上げた!!


 一体、水が燃えるなどと言う、トンデモ科学があるかというお叱りも聞こえてきそうなので、その原理を解りやすく解説した資料を転載しておくことにする

 これは既に触れたことでもあるので、重複するが、所謂、ブラウンガスというものの存在である。水はH20 、ブラウンガスは、HHOと表す。つまり、分子ではなく元素の集合体なのだ。H2 O2でもない。つまり、水素ガス、酸素ガスではないのだ。だから、ブラウンガスという。

 従って、水の電気分解とは元来違う。従って、このガスは、火を付けない限り爆発しない。燃えないのである。細かい性質については、下記の引用転載記事、もしくは転載元を参照すれば理解できよう。

 これをトンデモ科学と揶揄するのは魂胆がある。知られては都合が悪い輩である。もう一つの側面がある。分けも解らず、詐欺に明け暮れるグループもいる。そういう輩が、この技術を信用失墜させている。これは元の狙いは、同じである。エネルギー革命を忌み嫌っている人々がいる。それは誰か? そんな者、すぐ分かる.......。

 要するに、このガスを効率よく生成できる技術があれば、エネルギーは無尽蔵になると言うことである。それだけのことだ。簡単な話である。

 水が燃えるガスに変わり、又水に戻る。これほどクリーンな燃料はない。

【転載開始】 <いちぶ引用>
http://www.recycle-solution.jp/shinki/dai3/05.html
ブラウンガスというのは、ブラウン運動のブラウン先生ではなく実はブルガリア生まれのユール・ブラウンさんという先生が発見したものです。発見といいますか、簡単に言えば水の電気分解です。ふつう水の電気分解ですと水素と酸素を別々に分離して取り出しますけれども、彼の場合にはこれを混合気体として取り出す。そしてこの場合に分子状の水素と酸素を混合したものでなく、いきなり発生させたときの、つまり原子状の化学用語でいう発生期の水素、酸素ガスの状態でこれが出てくるのです。私も化学の出身ですから発生期というのは大昔習ったのですけれども、非常に不安定な状態で、ものすごく短時間に原子状のものが分子になってしまう。そういうことしか教わっていなかったわけですが、どうもこのブラウンガスの場合には、だいぶその常識とはかけ離れたような挙動がいろいろ見られるのです。

ブラウンガスというのは学術名というふうに我々は言っておりますが、学術名はブラウンガス。それを勝手にというか、皆さんが水酸素ガスとか、水素酸素ガスとか、あるいはZETガス。今日はZETガスの話に触れるわけですが、同じ言葉ですけれども、ゼロエミッション・テクノロジー・ガスの略だそうです。あるいはCPガスというのはクリーンパワーガスとか、アクアガスとか、会社によって自分の名前を勝手につけているというわけです。

ブラウンガス自体は非常に単純なものですから、水を電気分解して水素と酸素の混合気体を取る。今までみたいに分離しないで。

それでは水素と酸素が混合しているからものすごく不安定で、振動とかショックですぐ大爆発でもするのではないかと思うのですが、これは皆さんご存じのように爆発限界というのがあります。63、64%ぐらいになると爆発する可能性はありますが、これはちょうど水素と酸素が2対1ですから、約67%ということで、爆発限界から若干離れているわけです。化学の特性というのは非常にうまくできているもので、若干でも、これは全く爆発しない。

では、爆発しないで火をつけたらどうなるかというと、これは爆縮するのです。凝爆ともいいますが、爆縮とか凝爆。英語で言った方が分かりやすいのは、爆発はエクスプロージョンですが、凝爆はインプロージョンです。うちに爆発するというか、爆縮です。そのために、例えば着火しますとバッと燃えて周りが真空になるわけです。つまり空気の容量から液体の容量に、水になってしまうわけですから、液相に移るわけですから、その空間がなくなるので、これは真空になる。ですからバーナーの炎を手に近づけて、このぐらいの炎が出ているとしますと1cmぐらい近づけてずっと手を置いておいても、全く熱く感じない。火傷もしない。そういう非常に集中した、エネルギーを外に無駄に流さないと言った方が……(素人的にはいえば、)そのような特性があります。

さらに面白いのは、炎の温度だけは280℃と非常に低いのです。ところが、これを鉄に当てますと、鉄板1mmでも2mmでも簡単に孔がスポッとあきます。ちょっとサンプルを持ってきました。これは日銀さんには悪いけれども百円玉をブラウンガスで、小さな普通のアセチレンバーナーと同じものを使ってあけたのです。そうすると、これは4~5秒で孔がスポッとあいてしまう。ふつうアセチレンを当てますと、このニッケルの百円玉は真っ赤になって溶けることはしないのですが、これがブラウンガスですと5~6秒でスポッと孔があいてしまう。

それから、タングステンの棒を用意します。タングステンというのは融点が3480℃ですから、鉄よりもタンタルよりも高いわけです。そこにブラウンガスを当てますと、例えば1cmぐらいの太さの棒がすぐ真っ赤になります。15秒ぐらいで真っ赤になって、タラッと溶け出します。溶けるだけではなくて、激しく燃えるというか、昇華します。ですから少なくとも3400℃の熱がそのブラウンガスが出ているわけで、それが蒸発しますから、 5000~6000℃以上の温度になっているのでしょう。つまり、相手の物質次第で温度が自由に上がる。こういう不思議な炎というか、特性を持っているのです。

なぜ、今までそんなすごいものが使われなかったのだろうか。今の理由も一つですが、これはユール・ブラウンさんがソ連で研究していて、その後GPUに追われ、それでオーストラリアに逃げて、それから韓国へ行って韓国で研究して、オーストラリアでも韓国でも弟子ができてその人たちが細々と小さな発生機を作り、最後は中国へ行ったりしています。そういう所でいろんな弟子がブラウンガスをつくって、細々といいますか、せいぜい冷蔵庫の大きなものぐらいの発生機を作ったりしていたわけです。ですから、小さなものはもう世界中に何百台も出回っていまして、これは小さな炎でスポッと溶融しますから宝石の加工に非常に向いている。あるいは歯科技工の加工機とか、今一番出ているのは鉄とかステンレスの溶融切断です。これは産業としてまだあまり知られていませんけれども、ある程度普及し初めて浦安の鉄工団地などで使われています。

実は、あまりにもデモを見るとすごいので、いろんな山師たちが群がってそこで一旗儲けようということもありまして、余計ブラウンガスの業界といいますか、フィールドを怪しくしてしまって、そんなものには手を出すなということもあるのです。そういう中の一つに、先ほど理論が分からないけれど、核変換がどうもこのブラウンガスで現象的には起きるらしいと。これは元MITのミルズ先生が自分のホームページで世界中の学者のディスカッションを載せていますが、常温核融合もその中の一種になり得るということで、常温核融合学会の中でもこのブラウンガスのペーパーが出ていると聞いております。ともかく常温核融合とか核変換なんていうと、ますます自分たちの身近とは遠くなってきて、なんか怪しくなってくる。

一例を言いますと、六ヶ所村で灰放射能の処理施設を2兆円もかけて造っているわけですけれども、これがもしブラウンガスで、溶融してしまうと放射能が減じるとか消えてしまうという実験が韓国の工業技術研究院ではなされているそうで、実際にその現象があると聞いています。

PEFC型の燃料電池にいきなりブラウンガスを入れてちょっとした工夫をすると、それで小さな豆電球がつきますから、水素を分離しなくてもいけるという実験結果もあります。そんなことを考えると、家電メーカーさんが、あと2年ないし3年後に家庭用の燃料電池の10キロぐらいのものをリーズナブルな値段で発売すると言っていますので、そういうところにこれが使えそうかなあと期待しています。そうすると、電気と水だけあればこの燃料電池がどんとんできるわけです。

水素のエナジーといっても、今、我々が測定しているのは分子状の水素のエネルギーです。発生期の水素のエネルギーというのは、あまりにも不安定で短時間なために、それだけを測定したという人はあまりいないでしょうし、あるいは測定器というのはないのです。

水にこのブラウンガスをかけたらどうなるのでしょうか。ブラウンガス自身が水をまた加熱して一部ブラウンガスにして燃えますから、それでボンボン燃えるということが今言われています。

3気圧ぐらいで今みんな使っているけれども、これが10気圧まで上げても何でもなかったと。ところが韓国のある先生は、10気圧以上に上げるとこれがそのまま水になってしまう。つまり非常に不安定な状態なので、圧縮すると水になってしまうと言うのですが、10気圧に上げても大丈夫だったという人と両方いますので。

ブラウンガスを活用した最新溶融技術の開発状況 より
http://www.recycle-solution.jp/shinki/dai3/05.html【転載終了】

【転載開始】2009年11月28日(土)

資材の購入先(セルボディ)


(これぐらいできればねえ・・・現実は↓)

とりあえず、セルボディです。

セルボディ、それは容器です。
スタン氏など、みなさん円筒形を採用しているので、素直にパクリましょう(笑)
本来筒である必要はないのですが、既製品で済ませられそうなので採用します。

セルボディは、水の分解状態が見えるように、筒部分は透明アクリルパイプ。
※【重要】泡の出るところを見るのが、この実験の目的であり醍醐味。
上下の蓋を、塩ビパイプ(水道管)用の掃除口を使うことにした。
量産されているものを買うのが、ワンオフで作るより安くつくし追加の入手も容易だ。

これにした↓




掃除口購入先

VUキャップ掃除100 VPCO : 488円
VUツマミ掃除口100 VPCO : 450円
100と言うのは呼び径で、一応、図面で確認したところ内径100mmです。
本来は外側面を使用してソケットで接続するのですが、内側でも行けそうです(笑)
こう言う樹脂部品は、図面通りでない場合が多いので、現物を測定して確認しました。
問題なくいけます。

建築設備・建築資材の激安・現金問屋オートミ・インターネットホームセンター
http://www.ohtomi.com/
現物を確認したくて伺ったのですが、在庫は意外と少ないみたいでした。(倉庫が別のもよう)
購入は、通販がよろしいと思います。価格は、安いのか良くわかりません。
ホームセンターでも買えると思います。
呼び径100です。125で行こうと思ったのですが、現物確認したらデカすぎ(笑)でした。



(HPより拝借)


アクリルパイプの購入先

はざい屋(知りうる限り最安値)
http://www.hazaiya.co.jp/category/akuriru_pipe1.html
在庫があれば、切り売りしてくれる場合あり。
径100mmは、肉厚5mmもありました。
2mmは少し頼りない(握ると変形する)ので、3mm以上がしっかりしていてよろしいと思います。
入手したのは、径100mm 長さ250mm 肉厚3mmです。
キャストと押し出しがあるようですが、キャストの方です。(どちらでも良いと思いますが)
店頭になかったので店員さんに確認したところ、長いパイプから切ってくれました。



(HPより拝借)


購入した部材たち。
掃除口は、つまみのないタイプ(左)のほうが、収まりは良いが、
つまみタイプに比べて蓋の肉厚が薄いので、ネジ切りは辛いと思う。
どちらが上になるかは、気分です(笑) 今のところ、つまみが上かなあ・・・ 
なんとでもなるので、じつはあまり問題にはしていない。




とりあえず、はめてみると、ガタなくスーっと入る感じです。
掃除口の側面は肉厚なので、アクリルパイプとの固定に芋ネジを使用しても大丈夫そう。
薄くシリコンを塗れば、水漏れの心配はなさそうです。
エポキシで、完全固定しても良いだろう。

立てても、外側の塩ビが落下しないので、嵌め合いの状態が理解できると思う。(画像確認↓)


ぶっといガラス管ヒューズみたいだ。Φ100です(笑)
あとで、ネオン管みたいに光らせたくなる予感がする。

現金問屋オートミとはざい屋は、お店同士が近いので在庫確認して、はしごするのも手でしょう。

セルの見栄えは無視してます。
追加工がほとんどない方法なので、参考になると思います。
ローコストだしね。

ステンレスパイプは、納品が遅れると連絡が来たので、現物確認後に載せます。
自分用の資料も兼ねてます。

マーストリヒト条約(out of eden

「マーストリヒト条約の本質を知らない研究者たち」  
  
    
 マーストリヒト条約における三本の柱

 さてマーストリヒト条約は経済・通貨同盟に留まるものではない。この条約が生まれた背景にはソ連・東欧社会の大きな地殻変動が関わっていた。共産圏社会の崩壊である。この事態をECとしてどう受け止めるか、これをめぐって真剣な議論が展開されたが、そこから次のようなヨーロッパ統合の基本的な骨格が考え出された。

 まず三つの部門または「柱」から構成される欧州連合(European Union EU)を創設する。マーストリヒト以降、このEUが統合ヨーロッパの総称として用いられている。

 第一の「柱」は修正されたローマ条約を中心にして出来上がっている。これはこれまでのECに対応する部門である。マーストリヒト条約に向かって最も真剣に議論されてきた経済・通貨同盟もここに含まれる。

 第二の「柱」は共通の外交および安全保障政策。

 第三の「柱」は司法および内務問題。ここには人の自由な移動を可能にするシェンゲン条約も含まれる。

上は甲南大学での講義です。実はマーストリヒト条約は1942年のNAZIS(シオニスト連盟)がそのたたき台を作ったのですがありとあらゆる文献でそれが示されることはない。学生が一番知りたいことなのですがそれを明かす教師が仮にいたとするならば即刻解雇である。1948年5月7日から10日にかけてのハーグ会議は1942年のNAZIによるマーストリヒト条約のたたき台によるものである。

欧州連合はDVD(Deutsche Verteidigungs Dienst)にとって長期展望に立ったものである。DVDはAbwehr とGehlen organisationから生まれたものでナチの超ウルトラ諜報機関である。1943年マドリッドに本部が置かれたが現在はミュンヘン郊外のDachauにあるが地図にはない。ナチス・ドイツの「The Thousand-Year Reich=千年王国」は変わらず,実はこの欧州統合のためのMaastricht Treaty(マーストリヒト条約)の元は1941年ベルリンでのNAZIによるセミナーがたたき台になっていることが判明した。"European Economic Community"<原文はドイツ語>と題する591ページの本が1942年ベルリンで発刊された。EDWARDHALE氏は英国図書館のReading Roomで発見した。恐ろしいことである。古い記事で3極委員会とゴルバチョフの密約で書きましたが,当時フランスの大蔵大臣であったジスカール・デスタンのみが3年後にこの条約が締結されることを知っていた。ゴルバチョフにソ連邦を解体しEU設立に協力する見返りが話し合われた。今のEUはナチの千年王国(New World Order)の実現のための過程なのです。本ブログ内検索で「マーストリヒト条約」を検索すると16件出てきます(汗)。学生さんは本当の事を卒論に書いたり試験論文に書いてはなりません。進級あるいは卒業できませんよ(笑)。

今は友人になったEDWARDHALE(Christopher Story(詳細はここをクリック))氏。その辺のいきさつは全て説明してくれた。氏はかつてサッチャー首相のアドバイザーを長く務めドイツ語,フランス語,ロシア語に堪能である。勿論英語も(笑)。右側の変なおじさんは管理人。氏のHPは4900万人が読んでいるという。多くは氏を最も嫌う権力者たちである。私が話したことを書いてくれ4月8日のX-DAYはなくなったことを感謝する。私に寄付して下さった寄付金は彼に渡してきた。もう一度お願いするかもしれません。その時は宜しくお願い申し上げます。

             そして.....

ソ連はKGBなしでは成立しない。「過去30年間必ず月一回,シベリア産ダイアモンドを積んで飛来,ロンドン空港の警戒厳重な特別エプロンに誘導されるアエロフロート機がある。積荷はただちにデ・ビアズ社に引き渡され,対価は即金で商業銀行の秘密口座に払い込まれる。KGBなどの重要な資金源だった。ところが,調印を予定された新連邦条約では,連邦は共和国に<金,ダイアモンドの権利>(第8条2項)を移譲せねばならない。これではKGBの資金源は枯渇する。その流れが変わろうとした直前,8月19日にクーデターはCIAによって仕掛けられあっけなく終わった」

1989年・EU統合に関するゴルバチョフと三極委員会との密約

参考:レーガン・ミッテラン協定

 検索は皆さんでやっていただくとしてAs Above,So Belowに少しこの条約について書いておきました。

 さてはてメモ帳「ヘロデの呪い」の最後にマーストリヒト条約が書かれています。

 拙稿:一体誰がヘロデ王を語ったのか?参照

Japan Research Review 1996年02月号 PERSPECTIVES
「21世紀へ向けてのEU統合の展望」

原文

調査部 河村小百合
1.はじめに

1992、93年の欧州通貨危機の後、やや下火になっていたEU経済・通貨統合を巡る議論が、最近再び活発化している。これは、93年11月に発効した「欧州連合条約(通称マーストリヒト条約)」の定める単一通貨の導入、すなわちEU経済・通貨統合完成の期限(現在実質的には1999年)が接近してきていることによるものである。 EUという限定された地域内、しかもそれぞれが国民国家としての歴史的な背景を有する複数の国家を含む地域内における単一通貨の導入という試みは、世界経済史上他に例のない、きわめて野心的なものである。そこで本稿では、経済・通貨統合実現に向けてのEUのこれまでの歩みと最近の動きを整理したうえで、単一通貨導入に伴う問題点、およびその実現可柏ォを検討することとしたい。

2.経済・通貨統合実現に向けてのこれまでの歩み

(1)「経済・通貨統合(EMU)」国zの萌芽

「経済・通貨統合(Economic and Monetary Union)」国zの起源は、今から約25年前の1970年前後に遡る。67年のEC発足後間もない当時の状況をみると、ECの外部環境面では、ブレトンウッズ体制崩壊の兆候が次第に顕現化し、米ドルに対する不信感が増大していた。 また、EC内では、加盟国間で大幅な為替レートの調整が生じ、64年に採用された共通農業政策(Common Agricultural Policy、注1)の維持が困難となるような状況が生じ始めていた。 すなわち、共通農業政策においては、主要農産物に域内共通価格を設定することにより各国農業の保護を図る価格支持政策が柱となっていたが、為替レートの大幅な切り下げが生じると、共通価格を維持するためには、為替レートの切り下げと同幅で国内農産物価格を引き上げなければならなくなるため、当該国の農家にとっては大きな打撃となる。そこで、69年のドゴール辞任の際に、フランの平価の11.1%もの切り下げに追い込まれたフランスでまず、「通貨補償金(注2)」という制度が導入された。これは、後にドイツでも採用されたが、CAPの原則を守りつつ、為替レート変動の影響を相殺するために、財政に相応の負担を強いるという制度であった。 このようにCAP維持のためのとりあえずの対策は用意されたものの、為替の平価の変更が続くようであれば、各国の政策スタンスを過度に保護主義化させかねず、CAP制度そのものの存続が危ぶまれたため、EC各国においては、為替レートの安定がとりわけ強く希求されるところとなった。

こうした状況下で、69年のハーグECサミットにおいて、西ドイツのブラント首相により、経済・通貨統合国zが提唱された(図浮P)。この国zはその後、ルクセンブルクの首相であったウェルナー氏を長とする委員会で検討され、70年10月に提出された通称「ウェルナー報告」にまとめられた。これは、最長10年間の期限内にEC内で経済・通貨統合を達成しようとするもので、経済パフォーマンス収斂のための政策協調と単一通貨導入に向けての取り組みを同時並行的に進めようとするものであった。

もっとも、その翌年の71年8月には「ニクャ刀Eショック」が起こり、アメリカはIMF協定に反してドルの金兌換制を一方的に停止し、第二次大戦後の世界経済の発展を支えたブレトンウッズ体制は幕を閉じた。その後、同年12月からは、「スミャjアン体制」下で固定相場制への復帰が試みられたものの長続きはせず、73年3月までに、世界の主要通貨のすべてが変動相場制への移行を余儀なくされた。

70年代入り後、このように国際金融情勢が激動する中においても、前述のように為替レート安定を強く希求するEC諸国は、経済・通貨統合を目指す努力を、細々とした形ながらも継続した。すなわち、71年8月の「ニクャ刀Eショック」直後のEC理事会において、早くも、EC内通貨間の為替相場の変動を一定の狭いバンド(中心レートの上下<直径>1%)の中に維持しようとする提案が、ベネルクス3国からなされた。 本提案はこの時点では他のEC加盟国の賛同は得られず、とりあえずベネルクス3国のみで実行に移されたが、その後、EC全加盟国が参加して採用された「スネーク制度」の原型となった。すなわち、72年4月にはEC中央銀行間協定(通称「バーゼル協定」)が締結され、為替相場の変動を中心レートの上下(直径)2.25%以内(ただしベネルクス3国のみは1%以内)に収めようとするシステムが、EC全加盟国の参加によって実施に移されたのである。 当時はまだ「スミャjアン体制」下にあり、各国通貨の対米ドル変動幅は中心レートの上下(直径)4.5%とされていたため、EC諸国のこの制度は「トンネル(スミャjアン体制下での直径4.5%)の中のヘビ(直径2.25%)」と呼ばれた。73年3月の変動相場制移行後は、「トンネル」が消滅することとなったため、「トンネルの外に出たヘビ」と呼称された。もっともこの後、同年秋には第一次石油ショックが起こったため、国際通貨情勢は激動が続き、この「スネーク制度」においても、中心レートの再調整が頻発したほか、参加国としてEC全加盟国が揃ったのは発足当初のみで、その後はフランスをはじめとする各国が制度への離脱と参加を繰り返すなど、安定したシステムとはなり得なかった。

(2)「欧州通貨制度(EMS)」の発足から「マーストリヒト条約」の発効まで

前述のように、70年代に細々と試みられた「スネーク制度」は結局瓦解してしまったものの、為替レートの安定を希求するEC諸国の意思は強く、同年代末には、新たな域内通貨制度の穀zが模索され始めた。

具体的には、78年4月のコペンハーゲンEC首脳会議において、フランスのジスカールデスタン大統領とドイツのシュミット首相により、EC全加盟国が参加する通貨制度の国zが提案され、79年3月の欧州通貨制度(European Monetary System)の発足に結びついた。これは、為替レートの許容変動幅こそ、前身となった「スネーク制度」より若干拡大(中心レートの上下各2.25%(直径は4.5%)されたものの、「スネーク制度」と同様、為替レート維持のために各国に市場介入などの厳しい義務を課し、そのための各国間の介入資金の相互供与システムも用意するものであった。そしてこれこそが現在試みられているEMUの端緒となったのである。

EMS発足当初の80年代前半は、世界的な経済情勢の影響もあって、中心レートの再調整(リアラインメント)が頻繁に行われた(図浮Q)。とくに83年までの4年間では、79年の第二次石油ショックの影響などから、加盟国間のインフレ格差が拡大したため、7回もの大規模なリアラインメントが行われた。もっともその後90年までの7年間では、各国の経済パフォーマンスが収斂し始めたことを映じて、リアラインメントは5回にとどまった。加えて、規模的にも、例えば85年のリアラインメントでは実質的にはフランス・フランのみが切り下げの対象、86年はイタリア・リラのみが切り下げの対象、というように、各回とも実質的には単独通貨を対象とする小規模なもので済んだのである。このように、EC諸国の経済が安定してきたことを背景に、経済・通貨統合実現に向けての取り組みは、80年代後半に急速に進展することとなった。
85年のドロール氏のEC委員長就任が、こうした動きに弾みをつける大きな契機となった。すなわち、EC経済・通貨統合検討委員会によって89年に提出された「ECにおける経済・通貨統合に関する報告書(通称ドロール報告)」が、単一通貨の導入に至るまでの3段階からなるアプローチ(図浮R)を初めて提案し、これがその後の諸手続を経て大筋で採用され現在に至っているのである。

ドロール報告はまず、89年6月のEC首脳会議において検討された。第二、第三段階のスケジュールについては、最終目標である単一通貨の導入方式についてイギリスが金融・通貨政策主権の委譲に強い難色を示したことなどから合意に至らなかったものの、各国間の金融政策の協調強化を主たる内容とする第一段階については90年7月にスタートするとの合意がなされ、嵐闥ハり開始された。この体制下で、同年10月には、EC加盟国でありながら10年以上の間参加を渋り続けていたイギリスのEMS加盟も実現した。

その後は、90年7月に経済統合、同10月に政治統合を達成したドイツ統一の動きが周辺諸国には脅威となり、その勢力を封じ込めるために経済・通貨統合の実現が急がれたという事情もあって、第二・第三段階の進め方に関する討議は継続され、ついに91年12月には、マーストリヒトEC首脳会議において、「欧州連合条約(通称マーストリヒト条約)」に関する基本合意(図浮S)に達した。 これは、EMU第二段階、すなわち、各国間の金融・財政政策の協調強化や欧州通貨機関(European Monetary Institute)の設立を主たる内容とする段階を94年1月に開始し、最終目標である単一通貨の導入を実現する第三段階については、参加国の判定に関し、物価、金利、財政赤字、為替面での厳しい条件を課し、全加盟国の半数以上の国がその条件を満たした場合との条件付きで早ければ97年1月に移行、それが不可狽ネ場合には達成した国のみで遅くとも99年1月には移行する、とのきわめて具体的なスケジュールを決定するものであった。 その後、デンマークにおける国民投票で同条約の批准が一度は否決されるなど一部の国で批准手続きが難航したため、マーストリヒト条約は、デンマークとイギリスに対し、経済・通貨統合の第三段階には加わらない自由を認める(いわゆる「オプト・アウト条項」)などの修正が加えられた形で、93年11月に漸く発効に漕ぎ着け、それと同時にそれまでの「欧州共同体(European Community)」に代わる「欧州連合(European Union)」が発足した。そして94年1月には、同条約の規定通りに第二段階が開始され、現在に至っているわけである。

また、この間、域内市場統合の面では、85年の「域内市場白書」、およびこれを受けた86年の「単一欧州議定書」によって定められたスケジュール通りに、93年1月には市場統合、すなわち、域内での人、財・サービス、資本移動の自由化が一応完了し、単一市場が完成した。

(3)「マーストリヒト条約」の描いたEMUの楽観的シナリオに対する市場の挑戦

もっとも80年代後半から90年代初期にかけて大きく加速した経済・通貨統合実現に向けての取り組みは、そのまま順風満帆な状態で進展するわけにはいかなかった。 すなわち、マーストリヒト条約の批准が92年6月にまずデンマークで否決されたことを契機に、金融・為替市場の参加者達は、ドロール氏率いるEC主導の経済・通貨統合実現計画が、?自国の主権の委譲に疑問を感じるという各国の国民の世論を必ずしも反映していない、また、?各国の当時の経済パフォーマンスを反映したペースのものとはなっていない、と判断したのである。具体的には各種ヘッジファンドなどの為替市場の投機筋が、前述のいわゆる「デンマーク・ショック」以後、各国通貨当局を相手に、経済・通貨統合最終段階への参加が危ないと目される通貨を標的として大規模な売りを仕掛けた。その対象は、ドイツ・マルクおよびそれと緊密な連動関係にあるオランダ・ギルダーを除く他のほぼ全通貨に及んだ。 各国通貨当局は、為替レートメカニズム(Exchange Rate Mechanism)の仕組み上、自国通貨の上・下限レート維持のためには無制限に介入しなければならない義務を負っており、そのためのERM加盟国相互間での資金融通システムも一応は整備されていた。 しかしながら、オプションなどの金融派生商品(デリバティブ)の発達により、このような投機筋が相対的には少ない元本を元手にきわめて巨額の取引を瞬時に行うことが可狽ニなった国際金融市場においては、ERMというシステム自体が想定している以上の額の売りを集中的に浴びせさえすれば、当局は自国の国内金融市場の調節上のテクニカルな制約の問題などを理由に(注3)これに抵抗することは不可狽ニなる事態が生じていた。すなわち当局は、設定している自国通貨の中心レートが市場の信認を得られないものであれば、その切り下げを必然的に迫られてしまい、投機筋は各国の介入資金(外貨準備)を相手に巨額の利益を必ず得ることができるという、「一方向の(one way)ゲーム」、言い換えれば、帰着する結果は「投機筋側の勝利、通貨当局の敗北」という1つに限定されているゲームが成立してしまったのである。

その結果、92年9月のERM危機においては、イギリスがポンドをERMから離脱させたほか、中心レートを一度大幅に切り下げたにもかかわらずこれを防衛し得なかったイタリアも、リラの為替レート維持のためのERM上の介入義務を放棄し、実質的にはERMから離脱するという、EMS創設以来の重大な事態に至った。その後も特定通貨を狙い撃ちする市場の攻勢は収まらず、スペイン・ペセタ、ポルトガル・エスクード、アイルランド・ポンドが1回ないし2回中心レートの切り下げを余儀なくされた。  その後93年の初夏に、史上最大の波乱が到来した。92年のERM危機以降、絶えず投機筋の売り仕掛けの対象とされながらも、ECの盟主としてドイツの全面的なバック・アップも得て、辛うじて中心レートを維持してきたフランス・フランが、独仏金融・通貨政策当局の協調の足並みの乱れを材料に、ついに投機筋による売りの集中砲火の対象とされたのである。 同年8月、各国政策当局は協議の結果、フランスの威信に傷の付くフランの中心レートの切り下げではなく、ERMの変動許容幅をそれまでの±2.25%から±15.0%へと大幅に拡大して、投機筋の動きを抑える道を選んだ。その背景としては、92・93年の欧州経済が、ドイツ先導の度重なる金融引き締めによって景気は悪化し、失業率も大幅に上昇するという悪循環に陥っており、為替レートの維持のために、これ以上景気を犠牲にはできないという事情が存在した点が指摘できる。

こうして、域内加盟国間為替レートの変動幅の縮小を目標に79年にスタートしたEMSも、14年後の93年8月には、実質的には変動相場制と大差ないようなシステムへの逆戻りを余儀なくされ、現在に至っている。その後は、リアラインメントこそ95年3月のスペイン・ペセタ、ポルトガル・エスクードの切り下げの1回にとどまってはいるものの、EU各国は、92、93年のERM危機で実証された、マーストリヒト条約の描く経済・通貨統合の楽観的シナリオの実現可柏ォに対する疑問と、正面から向き合わざるを得なくなるに至った。

3.経済通貨統合を巡る最近の動き

経済・通貨統合を巡る最近の動きをみると、マーストリヒト条約では、第三段階(単一通貨の導入)移行の時期や条件などについての大枠を定め、その細部の議論は、96年に嵐閧ウれている政府間協議(Inter Governmental Committee)で行うことになっているため、EMU第三段階開始の方式をどのようにするか、などの点に関する議論が95年入り後活発化している。 95年12月のマドリッドEUサミットでは、新単一通貨の名称を「ユーロ」とすること、テクニカルな単一通貨の導入方式としては「クリティカル・マス方式(後述)」を採用することなどが正式に決定され、若干の前進がみられた。しかしそこでの決定事項は、単一通貨導入の形式的な面にとどまっており、単一通貨導入後のシステムをいかに首尾良く機狽ウせるか、単一通貨導入の時点で第一グループに残れなかった国との関係をどのように維持するか、といった本質的な問題には全く言及はなされていないのが現実である。

(1)単一通貨導入の形式的な問題-「クリティカル・マス方式」と「ディレイ・ビッグバン方式」

まず、単一通貨の導入の際に採用する、技術的な移行方式については、95年5月に欧州委員会から「グリーン・ペーパー」(図浮T)が発浮ウれ、「クリティカル・マス方式」の採用が提案された。これは、単一通貨の導入という第三段階をさらに三つの局面に区分し、実際の単一通貨建て取引の開始に際してはホールセール取引などの大口取引、銀行間取引(いわゆるクリティカル・マス)を先行させてスタートさせ、リーテイル取引への導入は一段階遅らせるというものである。これは、マーストリヒト条約における「単一通貨の速やかな導入」という項目に対する配慮や、国民が新単一通貨に慣れ親しむには時間を要するとの判断から提案された方式である。 しかしながら当初ドイツは、この方式では、単一通貨建て取引を大口取引に採用してから個人取引に採用するまでの間に、各国通貨と新単一通貨との「二重アカウンティング」の期間が発生してしまい、それに対応するためのコストが金融機関を中心にかなり嵩むという理由からこの案に反対し、「ディレイ・ビッグバン方式」の採用を主張していた。これは、各国通貨と単一通貨との交換比率を固定した後(「グリーン・ペーパー」における「フェーズB」)、一定期間をおいて(「グリーン・ペーパー」でいえば「フェーズC」の時点で)一斉に単一通貨を導入するというものであったが、同7月にブンデスバンクが、ドイツ金融界の理解が得られたとして譲歩したため、欧州委員会の提案する「クリティカル・マス方式」の採用に関して、主要国間のコンセンサスがほぼ得られた格好となった。 すなわち、現行マーストリヒト条約の規定通りに99年に単一通貨の導入が実施されるのであれば、実際には、2002年にはリーテイル取引においても統一通貨が使用されるようになる、という目処が明らかになったわけで、テクニカルな移行方式面では大きな前進がみられた。この点は、95年12月のマドリッドEUサミットでも正式に承認され、同時に新単一通貨の名称も「ユーロ」に正式に決定された。

(2)「2スピード方式」が現実的に

2.(2)で述べたように、経済・通貨統合第三段階への移行(単一通貨の導入)に際して、マーストリヒト条約では、物価、金利、財政赤字、為替相場に関する5つの「収斂条件」(図浮U)が規定され、これを加盟国の半数以上が満たした場合との条件付きで早ければ97年1月に移行、それが不可狽ネ場合には達成した国のみで遅くとも99年1月には移行する、と定められていた。

もっとも、EU各国の最近の経済パフォーマンスから、この「収斂条件」の達成状況をみると(図浮V)、5つの条件のすべてを満たしているのはドイツとルクセンブルクのみ、次点もフランス、デンマーク、アイルランドのみという状態である。こうした実情に鑑み、マーストリヒト条約における「早ければ97年」との規定を実現することは事実上かなり困難ではないか、との見方が市場ではかねてより有力となっていたが、95年6月のEU蔵相理事会は、そうした見方を追認する形で、「早ければ97年」との規定の実現可柏ォを非公式ながら否定した。

その後は、「遅くとも99年」との規定のみが事実上効力を有する状態となったが、単一通貨の導入を99年に遅らせるとしても、助ェな数の参加国が揃わないのではないか、ないしは、主要国においても、99年までに「収斂条件」の達成を図るとすれば、そのデフレ作用が大き過ぎるのではないかとの意見が、一部の参加国(イタリア、イギリスなど)や政党(ドイツの野党のSPD)から楓セされるに至った。 しかしながら、95年12月のマドリッドEUサミットにおいては、経済・通貨統合第三段階移行はあくまで99年に開始するという点が再確認されたほか、98年初頭には第三段階移行に当たっての参加国を決定し、その直後には参加国の金融政策運営を一元化する欧州中央銀行制度(European System of Central banks)を設立する、との点が決定された。こうした決定に鑑みれば、経済・通貨統合第三段階へは、「収斂条件」を満たした一部の国のみで移行するとの、いわゆる「2スピード方式」の現実性がさらに増したと言えよう。

(3)単一通貨導入のより本質的な問題の解決は先送りに

しかしながら、95年12月のマドリッドEUサミットでは、単一通貨導入後の新システムをいかに首尾良く機狽ウせるか、単一通貨導入の時点で第一グループに残れなかった国との関係をどのように維持するか、といったより本質的な面にまで踏み込んだ決定はなされるに至らなかった。

例えば、上記?の点に関しては、95年11月にドイツが、単一通貨導入後の参加国に対して、財政面で「欧州連合条約」が定める以上に厳しい条件をさらに課す「欧州安定協定」という提案を行っている。これは具体的にはマーストリヒト条約の定める単年度の財政赤字幅の対名目GDP比率が3%以下という条件をクリアーして、第三段階への移行を果たした国は、単年度の財政赤字幅の対名目GDP比率を通常は1%以内にとどめるように運営し、経済状態が悪い場合でも最大3%以内に抑制しなければならず、この比率が3%を超えた場合には自動的に制裁(GDPに対する一定比率の金額の無利息の預金としての拠出)を科す、というきわめて厳しい内容のものである。ドイツとしては、第三段階移行後に誕生する新通貨の価値が現在のドイツ・マルク以下のものになってしまうことをもっとも恐れており、強い通貨マルクの喪失を懸念する国民世論にも配慮して、新通貨の価値を担保するために、言い換えれば新制度が首尾良く機狽キるように、マーストリヒト条約が要求するよりも厳しい条件を課す内容の提案を行ったものとみられる。 しかしながら、フランス、オランダ、オーストリアはドイツの「欧州安定協定」案に対する支持をすでに楓セしたものの、欧州委員会としては、ドイツの提案に対しては慎重な姿勢を崩していないほか、95年12月のマドリッドEUサミットにおいても、この問題が議論に取り上げられたものの、正式な合意をみるには至らなかった。

また、上記の問題についても、単一通貨導入の時点で第一グループに残れなかった国について、その通貨が為替市場で投機筋による売り圧力の対象とされたり、もしくは「近隣窮乏化政策」的な発想から、自国の景気押し上げのための為替切り下げ競争に走ったりすることのないようにすることが必要であるという問題が存在する。こうした観点に立ち、欧州委員会のドシルギー委員(経済・財政・通貨担当)から、単一通貨導入の時点で第一グループに残れなかった国の通貨について、現行のEMSに代わる新制度を導入することが必要である、との提案が95年10月末になされていたものの、この点に関しても12月のマドリッドEUサミットでは、具体的な決定は何らなされるに至らなかった。

確かに「欧州安定協定」の実現や、EMSに代わる新制度の導入に際しては、それぞれ新たな法的手続きが必要ではあるものの、その前段階であるEU首脳レベルでの意思決定もできなかったということは、各国とも、目先の「収斂条件」の達成に精一杯で、単一通貨導入後、新システムをいかに有効に機狽ウせるかという本質的な問題は先送りにされているのが現実であると言えよう。

4.EU加盟国の最近の状況

以上述べてきたように、EMU実現のためのスケジュールや条件が徐々に具体化されていることを受け、EU加盟各国は、単一通貨導入のための「収斂条件」を満たすために、政策運営上真剣な努力を行っている。総じて、財政政策運営スタンスの緊縮化が強まっているために、そのデフレ作用を映じて各国とも景気拡大ペースの鈍化を余儀なくされているほか、政府の提示した抜本的な改革案に対するストライキにより、国民生活に深刻な影響が及んでいる国もみられる。換言すれば、EUとして単一通貨を導入するための見返りとしての、各国経済へのマイナスの負担が再び顕現化しており、それほどまでしても単一通貨を導入するのかという点に対しての最終的な決断を各国が迫られている状況にある。

例えば、ドイツでは、95年1月に、財政赤字削減のため、総額375億マルク、名目GDP比率では実に1%強の規模に達する所得税・法人税増税が実施され、現実にそれが、個人消費、民間設備投資拡大の足枷となり、95年入り後の景気拡大ペースは明確に鈍っている。さらに、同7月には、歳出の伸びを43年振りに前年比マイナス(▲1.3%)とする、96年連邦政府落Z案が打ち出され、緊縮色のきわめて濃い財政政策スタンスが来年以降も継続されることが明示されている。

一方、フランスも95年5月にシラク新大統領の下でジュッペ新政権が誕生したのを機に、財政政策スタンスの一段の緊縮化が図られ、8月には早くも付加価値税が2%ポイント引き上げられた(18.6→20.6%)ほか、法人税などの増税や、大規模な歳出削減を含む総額490億フランの財政赤字削減策が直ちに実行に移された。さらに同9月には、96年落Z案が発浮ウれ、大型の増税と歳出削減による、総額320億フランの財政赤字削減策が示された。これは、一般政府財政赤字幅の対名目GDP比率を95年の5%から96年には4%に引き下げようとするもので、99年1月の経済・通貨統合第三段階移行を前提に、97年までに単年度財政赤字の「収斂条件」を達成して、単一通貨導入の第一グループ入りを図ろうとする、フランス政府の強固な意思が示された形となった。

また、そのうち、今後のフランスの財政赤字の先行きを握る鍵となるとみられながら、この時点では細部の決定が先送りされていた、社会保障特別会計の改革についても、同11月に抜本的な改革案が発浮ウれた(図浮W)。これは、95年には▲610億フランに達しているとみられる同会計の赤字を、96年には▲170億フランにまで縮小し、97年には黒字転換を図るものである。内容的には、新税創設による増税や支出の大幅削減、医師・医薬品業界への応分の負担賦課などを含むほか、将来的には、社会保障特別会計の運営方法の変更や、財源の抜本的な転換をも視野に入れたものであり、この意味で本改革案については、単一通貨導入のためには、従来の制度下における既得権益にもメスを入れるという、かなり思い切った内容との評価を行うことが可狽ナあろう。

フランス国内ではすでに本改革案に反対する公共セクターのゼネストも実施されており、市民生活には深刻な影響が及んでいる。政府側はこの改革案の実行にかける強固な意思をこれまでのところ崩していないため、労組との交渉は不調に終わっており、最終的にどのような形で決着するかについては嵐fを許さない。また、フランスにおける動きが飛び火した形で、デンマークにおいても政府の財政赤字削減策に反対する公共部門のストライキが実施されている。EU各国の政府及び国民が、これほどのマイナスの負担を甘受しても単一通貨を導入するのか、という最終決断を迫られる時期に差し掛かっているのは事実であり、今後の展開が注目される。

5.経済・通貨統合の問題点と実現可柏ォ

次に、マーストリヒト条約をベースとする現在のようなシナリオで単一通貨を導入した際に考えられる問題点を検討し、それを踏まえたうえで、EMUの実現可柏ォを探ることとしたい。

欧州においては、「単一通貨の導入」はすでに至上命題となっている感があり、ともすれば、「単一通貨を導入する意義は何か」という点が助ェに顧みられていない感がある。しかしながら、アメリカの学者などからは異議も唱えられているのが現実で、まず最初に、単一通貨導入のコスト(代償)と、ベネフィット(利益)としては、いかなる点が考えられるのかを検討したい。

(1)単一通貨導入の「ミクロ面の利益」

まず、欧州委員会の立場としては、単一通貨導入の大義名分として、「市場統合の効果を最大限に発揮させるためには、通貨統合の実現が是非とも必要」との考え方を一貫して主張し続けている。これは、90年に発浮ウれた『一つの市場、一つの通貨』で示されたものであり、具体的には、?為替関連コスト、すなわち各種為替取引にまつわるコストや、為替ヘッジのためのコストの削減、?規模の経済の実現(注4)、といった「ミクロ面での利益」を強調する考え方である。EC委員会(当時)は、この為替関連取引コストの削減効果がEC全体のGDPの0.3~0.4%に相当するとの試算結果を90年に発浮オているが、現実問題として「単一通貨導入」の利益としては、このようなミクロ面のものしか見当たらないのが実情である。

(2)単一通貨導入の「マクロ面の損失」

一方、損失面を考えてみると、各国にとっては、単一通貨の導入によって金融政策運営上の主権の喪失を余儀なくされるという、相当に大きい「マクロ面での損失」が発生することになる。これを補完する適切な措置が講じられなければ、「マクロ面での損失」が「ミクロ面での利益」を大きく上回ってしまい、通貨統合に踏み切る意義自体が揺らいでしまうことは確実である。

「金融政策運営上の主権の喪失」とは、具体的には、単一通貨導入後の金融政策運営は、必然的にEU全体として、現在フランクフルトに設置されている欧州通貨機関(European Monetary Institute)の後を受け継ぐ欧州中央銀行制度(European System of Central Banks)によって一本化されることになるため、参加国間の景気情勢に跛行性が出た場合、景気の悪い国が独自の金融政策運営により短期金利の低下を図り、需要喚起を促すことが困難になるということを意味する。 EU各国は、これまで市場統合の完成などにより経済の相互依存度を高めているため、景気波動の同時性は高くなってきてはいるものの、実際には得意とする産業分野も異なり、EU域外、例えばアメリカに対する経済依存度もそれぞれ異なるため、各国の景気波動の局面は異なるのが現実である。ドイツ統一、およびこれに続く92、93年のERM危機は、このように各国の景気波動にズレが生じた局面で各国が金融政策運営の主権を制約されると、どのような結果を招来するかを示した好例といえよう。

当時の状況(図浮X)を振り返ってみると、ドイツの景気局面と他のEU諸国の景気局面との間に著しいズレが生じたのは、東西ドイツの統一という、歴史上きわめて稀な出来事が契機であったとは言え、EU諸国にとっては不幸なことに、そのドイツがEU全体のアンカー国としての役割を果たしていたため、本来ドイツ一国のみにとって必要であった高金利政策の影響を、ERMのシステムを通じて他のEU加盟国までもが被る結果になった。 フランスをはじめとするドイツ以外のEU諸国にとっては、物価は総じて明確な低下傾向にあり、フランスについてはドイツよりも低位で安定していたほどであったことに加え、国内景気情勢は芳しくなかったことから、単純に考えれば、利下げにより国内需要喚起を図ることが政策運営上望ましい選択肢であることは誰の目にも明らかであった。しかしながら、アンカー国であるドイツが、インフレの高進という自国固有の情勢に鑑み、高金利政策を継続したために、ドイツ以外の各国は、国家としての威信にこだわりERMにおける自国通貨の中心レートを維持するために、自国の景気情勢にはそぐわない、高金利政策に追随せざるを得なくなったわけである。 2.(3)で述べたように、政策当局の抱えたこうした矛盾に対して為替市場参加者は真っ向から挑戦してきたため、イギリスとイタリアは92年の第一次ERM危機の時点でこの投機筋による自国通貨に対する売り圧力に耐えられなくなり、ERMから実質的に離脱した。そして金融政策運営上の主権を回復したこの2国は、結果的にはERMにとどまった他国よりも早期に景気回復を実現するという結果となった。一方、フランスをはじめとするERM残留組の景気回復は遅れたが、93年の第二次ERM危機で、こうした矛盾を内包するERMというシステム自体が存続し得なくなり、変動許容幅の大幅な拡大によりこのシステム自体が形骸化を余儀なくされる結末に陥った。

こうした経験は、ERM制度の維持という、単一通貨導入の前段階においてさえも、金融政策運営の主権が制約されると、各国経済にどれほどの損失が及ぶか、言い換えれば、単一通貨導入による「マクロ面での損失」がどれほど大きなものであるかを物語るものであると言えよう。

そして、まさにこの点が、アメリカの学者がEMUの実現に対して異議(注5)を唱える根拠であり、NAFTA(北米自由貿易協定)の締結により自由貿易地域を形成してしている北米地域において、さらに通貨統合を試みようという議論が全く出てこないことの所以でもある。

(3)「マクロ面の損失」を補完する手段と、単一通貨導入の実現可柏ォ

では、こうした「マクロ面の損失」を補完する手段を他に求めることは可狽ナあろうか。 これは、世界各国をどの地域で区切って一つの通貨を導入することが最適か、例えば、日本国内でも、独立した島である本州と九州とで独立した別の通貨を用いることが果たして適当であるか、などの点に関する「最適通貨圏」の議論において論じられる内容である。 「最適通貨圏」の議論によれば、その成立要件とはすなわち、この「マクロ面の損失」を補完するためのものにほかならない。そのうちの主なものとしては、単一通貨圏を告ャしようとする各国間で、労働力の移動が比較的容易であること、連邦的な財政システムが確立していること、の2点が挙げられるのが一般的である。その含意はすなわち、単一通貨の導入によって、各国の金融政策運営上の主権が失われた場合においても、各国間の労働力の移動が比較的容易であれば、景気の悪い地域から良い地域へ労働力が移動することによって、景気情勢の平準化を図り得る、ないしは、当該地域で連邦的な財政システムが確立していれば、景気の相対的に良い地域で法人税や所得税、付加価値税といった税金をより多く吸い上げ、それを原資に景気の相対的に悪い地域での公共投資や社会保障給付などに当てることによって、各国間の景気情勢の跛行性をならすことができるということである。

ちなみに、ドイツ統一の場合は、経済パフォーマンスの全く異なる2国の通貨統合が強行されたものの、この2つの「最適通貨圏」の条件の両方が満たされたため、その双方の経路を通じて、両ドイツ間の経済パフォーマンスの調和に向けての調整が今日もなお続いているわけである。具体的には、1対1という経済実態を無視した交換レートでの通貨統合の強行により、旧東ドイツ地域の産業は競争力を全く失ってしまったため、旧東ドイツ地域から旧西ドイツ地域に向けての職を求めての労働力の移動は今もなお続いているほか、旧東ドイツ地域の復興のため、具体的には失業者に対する社会保険給付や、各種の投資助成措置などの形で、旧西ドイツ地域から毎年2000億マルクもの巨額に上ると推定される、主として財政支出の形態での所得移転も続けられているのが現実である。

次に、EUがこの2つの「最適通貨圏」の成立要件を満たすかを考えるに当たってまず、EUとほぼ同等の経済規模を有する、アメリカ合衆国の場合を検討してみよう。

アメリカ合衆国の「最適通貨圏」成立要件件の充足状況をみると、2つの条件の両方を満たしていることがわかる。 すなわち、まず、の労働力の移動の容易さについては、大きな問題はないと考えられる。それは、一部の州を除き陸続きであり、言語面でも英語が広く共通語として用いられているうえ、歴史的にも開拓以来比較的日が浅く、州毎の文化面での相違もそう大きな問題にはならないと考えられるからである。 また、連邦的な財政システムの確立の面についても、アメリカ合衆国の場合は、景気面での州毎の跛行性が生じた場合、その平準化を図るための連邦政府ベースのスキームも確立しているとみて差し支えないと考えられる。なぜなら、連邦政府の財政規模は国全体としての一般政府の財政規模(その名目GDP比率は3割強)の6割強を占めているのに加え、連邦政府の歳出の中に公共投資や失業保険などの社会保険給付といった、景気の平準化を図るために有効に作用するとみられる項目が含まれているからである。 これは一見当然のことのようでありながら、こうした「マクロ面での損失」の補完手段が完備されているからこそ、あれほど広いアメリカ合衆国においてドルという単一通貨を流通させ、金融政策は連邦準備制度(Fed)による一本化された運営がなされていても、大きな支障は生じていないということになるわけである。

EUのケースについては、まず、の労働力の移動の容易さの問題については、地理的には陸続きの国が多いことは好都合ながら、言語は各国毎に異なるほか、文化、歴史的な背景の相違も大きいのが現実である。それゆえ、市場統合の完成により物理的な障害は除去されているものの、各国間で景気情勢に跛行性が生じたからといって、それに応じて労働力が移動することはそう容易ではないと考えられる。他方連邦的な財政システムの確立の面でも、現在のEU落Zは、ここで言うような連邦的な財政システムの確立からは程遠いのが現実である。というのは、現在のEU落Zは、EU加盟国全体の名目GDP比率で1.3%程度の規模しかなく、しかもその歳出の使途は、前述のCAP関連落Zが60%弱、地域振興関連落Zが20%強を占め、その殆どがこうした景気動向とは無関係な所得再分配目的のもので占められているからである。

マーストリヒト条約においても、このような点の改善のための規定は全く存在せず、単一通貨導入による「マクロ的な損失」の補完手段については全く考えられていないのが現実である。ドイツの提案した「欧州安定協定」とても、EUにおける連邦的な財政システムの確立という点に関しては、全く視野には入れてはいない。このように考えると、現在のマーストリヒト条約の定める道筋のみに従って単一通貨の導入を進めることは、「マクロ面での損失」の潜在的なマグニチュードを何ら考慮していないという点で、非常に危険であり、その実現可柏ォ、制度としてのサステナビリティー(持続性)には、大きな疑問が残ると言えよう。

6.おわりに-21世紀の欧州の姿

以上のように考えると、欧州では単一通貨の導入に向けて、EUレベル、加盟国レベルの双方で着々と準備が進められており、そのこと自体から、短期的には各国経済にデフレ作用が強まるものの、中・長期的には各国経済の健全化が促されるという点で好ましい状況と言えよう。

しかしながら、経済・通貨統合の第三段階移行に当たって用意されているスキームは未だ不助ェであると言わざるを得ない。すなわち、この単一通貨制度を成功裡に機狽ウせるためには、前述のように、EU全体としての連邦的な財政システムの確立が不可欠であり、そのためには、EUの政治統合も必要となってくる筋合いにある。現在のような小規模なEU落Zの運営に関しても、各国からの同意を取り付けるのは容易ではないことからすれば、これはきわめて困難なことであろうというのは容易に推察されるところである。 しかしながら、仮にも経済・通貨統合を実現させようとするのであれば、そうした困難をも乗り越えてEU連邦を実現させるほどの強い意思が各国に必要であり、さもなければ、単一通貨はたとえ一度導入されたとしても、永続性のある制度とはなり得ず、やがて、そのシステム自体が内包する弱点が露呈して、瓦解に追い込まれてしまう可柏ォが高いと考えられる。

ところが、実際には、政治統合はまだほとんど白紙の状態であり、加盟国の中には、イギリスのように、国家主権に対する執着がきわめて強い国も存在するのが事実である。また、EUは経済・通貨統合の「深化」の一方で、中・東欧諸国などを対象とする「拡大」(図・0)の問題も抱えており、「2スピード方式」の現実化とEUの「拡大」が同時並行的に進展した場合、EU自身のアイデンティティー自体が希薄化してしまう可柏ォも否定できない。

EU統合は、加盟国にとってはすでに「一度乗りかかった船」であり、時計の針が逆戻りすることはもはやあり得ない地点にまで到達していると言えよう。ただし、その先行きにこのように紆余曲折が卵zされていることからすれば、その求心力を維持するためにはかなりのエネルギーが引き続き必要であるものと考えられる。しかしながら、フランスで国民にかなりの痛みを伴う社会保障制度改革が断行されようとしていることからも明らかなように、EU諸国の、単一通貨実現に対する熱意は言葉には言い浮ケないほど強いものであり、またそれを、相当な苦しみを覚悟でやり遂げようとしているのも事実であって、その背景には、「単一通貨の実現なしには21世紀に向けて欧州は世界の中で生き残り得ない」との危機意識があることは明らかである。すでにみてきたように、EMUに向けての取り組みが、20年以上の歴史を有するものであり、その間世界情勢の激動の波にもまれながらも、途絶えることなく継続されてきたのはその一つの証左と言える。近年稀にみる大規模なストライキが実施されているフランスにおいて、事態がどのような解決の道を辿るのかは今後の展開を占う一つの試金石となろう。今後の欧州において、連邦を建設する動きが進展するのか、それとも経済・通貨統合に向けての動きが頓挫するのかは嵐fを許さないが、21世紀の欧州がいかなる姿となっていくのかが今後とも注目されるところである。
注  
1. ECの前身の一つであるEECが64年に導入した制度で、加盟各国に特有の農業助成制度を一本化し、共通の政策体系に取りまとめようとするもの。自由貿易市場の形成、すなわち市場統合を進める過程でもっとも恩恵を被るのは工業国ドイツであり、それとのバランスをとるために、フランスが自らの得意分野である農業に関しても、域内広域市場の穀zを目指したもの。 当初は、主要農産物に域内共通価格を設定し、為替変動に際しては各国政府が通貨補償金(注2)を支給するという価格支持政策が柱であり、実態としては「工業部門から農業部門への巨大な所得再分配システム」にほかならなかった。この結果、主要農産物の慢性的な過剰生産が生じ、EC財政にとっても最大の負担要因となってきたため、92年に国「調整優先型の政策体系への転換が行われた。
2. 例えばフランス・フランの平価が切り下げられた際、フランスの国境を通過する農産物に、輸出の際にはフランの切り下げ幅と同幅の輸出税を賦課し、輸入の際には逆に同幅の補助金を与えることにより、国内農産物価格を一度に引き上げることを回避しようとする制度。マルクが切り上げられたドイツでは、輸入農産物に課税し、輸出農産物に補助金を給付するという、フランスとは逆方向の形で実施された。
3. 例えばフランス・フランがドイツ・マルクに対して売り込まれ、ERMの下限レートを割り込みそうになったとき、ERMのシステム上では、ドイツ(ブンデスバンク)からフランス(フランス銀行)に対する無制限の介入資金供与システムが整備されている。しかしながら、巨額のフラン買いマルク売り介入が実施された場合、ドイツの国内金融市場では巨額のマルクの資金余剰が発生して、金利水準の急速な低下が生じてしまう(フランスでは逆の事態が生じる)。これを防ぐために当局は金融調節上マルク資金を吸収して金利水準に影響が出ないように努めるが(いわゆる「不胎化」)、定期的な国内金融市場調節で動かされる額を大幅に超過するような為替市場介入がなされた場合、それを不胎化することは事実上不可狽ニなるため、結局は、為替市場の投機筋の動きに屈して、フランスがフランの中心レートの切り下げに踏み切るか、ドイツがマルクの切り上げを余儀なくされる筋合い。 ちなみに92年9月のERM危機時のイギリス・ポンド防衛のための介入額は1日当たり400億マルク程度、93年8月の危機時のフランス・フラン防衛のための介入額は1日当たり700億マルク程度(フランス1国の通常時の外貨準備高に相当)と推定されている。
4. EU域内で単一通貨が導入されれば、各国企業にとって、従来の域内国境にまたがる活動が一層容易になり、事業規模拡大の利益が享受できるということ。
5. アメリカの学者によるEMUに対する異議の例は以下の通り。
・ M.フェルドシュタイン・ハーバード大学教授の主張(92.6.13付The Economist掲載) EC加盟国間では、各国を襲う経済ショックが似通っているわけでもなく、各国間での労働力の流動性も決して高くはなく、アメリカにおいて90年代初期の景気後退(州毎の跛行性あり)からの回復に実際に大きな役割を果たしたような、連邦的な財政システムも存在しないため、「最適通貨圏」は成立しない。従って、欧州には、そうすることの政治的な利益が経済的な不利益に勝らない以上は、単一通貨を導入する利益はない。
・ P.サミュエルャ唐轤lIT6教授の主張(93.7.29付Financial Times 掲載) ERMは強固なドイツ・マルク本位制を採用していることが今日(注:当時)問題。EC他国がドイツの高金利政策に追随する理由はなし。ECの中心的な告ャ要素は共通市場の創設であって、それゆえ、現行のERMは葬り去るに値する。

CIAの前身OSSの秘密文書

CIAの前身OSSの秘密文書から

『日本は社会的ハイテンシオン国家である。ゆえに,緊急や危機場面での情緒の不安定は,抑制の利かない乱暴で,野獣のような残忍な日本の軍隊はアジアの国々の平和な民を失わせた。それは,健全な自己主張も何もない日本という病める社会を象徴している。1605年の徳川幕府にも見られるものである。1923年にいたっては関東での大震災での狂気に満ちた暴動に見られる。

 日本における「集団的ヒステリー」は米国太平洋研究所における極東研究所のE・Herbert Normanによって書かれた本によって明らかになった。それによると多くの日本人の静かさの裏に隠されたノィローゼ的,熱病的な激しい感情が明かされることを想像する上で何もフロイト学派である必要はない。日本人の社会的行動規範の第一の特徴は極度に抑制されたものである。何かにつけ自己保身のためカモフラージュしてしまう行動から伺い知ることが出来る。心理戦争を仕掛ける上で,群集に恐怖感を植えつけるだけでなく,統制のとれた状態から国家より個人の生存のみを重視するやじうま的群集というヒステリックな社会状況が肝心である。

 ........今こそ日本本土に対し心理戦争を仕掛けるべきである。これによって日本人の間にフラストレーシオンの輪が確立し価値観にもつながる。すでに,日本のラジオ放送から伺える充分な証拠として,政府の操作はこのフラストレーシオンをチャネリング(達人注:大本営発表)していることである。戦時中サイパン,沖縄が陥落した際,二つの内閣は崩壊した。裏にあるものは(大本営発表)拡大するフラストレーシオンに対して希望を与えるものであった。日本人が終わりなき世界というものよりも,絶対確実なものに置き換えられることによって騙され続けていたことである。

 日本人のモラルのバロメーター(判断基準)として鈴木首相の国民にあてた演説がある。沖縄侵略後の小磯内閣崩壊後,直面しつつあった危機を葬り去ろうとした。これは国民にすでにヒステリーの種がまかれていたことを表す。これによって我々は二つのパニック的な状況を日本人大衆の狂ったようなヒステリーをいかにして現実のものとするかであるが,これらは長期的展望に立って自然の力という物理的な戦争による破壊(達人注:人工地震のこと)によって成し遂げなければならない。このような心理戦争キャンぺーンの目的は科学的な爆弾投下(注:原爆)だけではなく,彼ら日本民族の絶滅である。

 N・H Heck(US Coast Geodetic Survey次長)によると地震は爆発物によって仕掛けることが可能であるのか?という点である。これはしかるべき時に,前もって地震が起きるべく時限装置であり,その引き金をただ引けばよい。一定の時間と場所で爆発させる(注:地震を引き起こす)為には正確を期すもので,巨大地震を引き起こすためにはどこに仕掛けるかを知る必要がある。いつ,どこでこのExplosive Message(人工地震)を実行するかは難しい点である。マニラ,上海,バタビアの基地はその引き金を引くためにある。小規模地震を繰り返し,大地震につなげていくマニラ,沖縄からはその引き金の射程圏である。

 どこにこの巨大地震を仕掛けるかであるが,カリフォルニア大學のP・Byerly教授は時と場所を考慮する範囲を縮小するべきであるとしている。氏はL・H Adams博士への手紙でターゲットの五マイル以内に一年以内に必ず破裂する爆発物が必要あると述べている。これらはPalmer Physical Laboratoryによって試験は行なわれ実証されている。ここで高度な爆発物を仕掛けた人工地震が研究された。これはファンタジーの世界から科学的なものへと人工地震が可能であることが実証された。これによる心理戦争によってパニックに陥れることが可能である。

 もし日本での戦略的地域で人工地震を起こさせるべく我々に同調してくれる科学者を配置しているともし知ったとしたら,日本国民はパニック的ヒステリーになるであろう。これらの計画は日本政府への踏み絵である。地下産業という存在は通常の爆弾投下から機械,およびそれに携わるワーカーを保護するものである。このような人工地震によって生きたまま生き埋めになることは簡単に想像できる。巨大水力発電所のダム崩壊による国中の洪水は実物戦争よりパニック的ヒステリー状態を作り出す。

 日本攻撃の目的

 より否定的なヒステリー状況という流れをかもし出すため,国のリーダーは誰も信じられなく,個人の生存のみに関心を持たせること。この心理戦争キャンペーンは勿論実際の攻撃とともに行なわれる。これによって心理戦争の効果であるパニック状況が増すのである。

 その方法

 日本人のもともと持つ恐怖心を煽ることによって達成される。すでにフラストレーシオンの輪の多くのサインは見られる。それは何かが壊れるという感覚である。徳川幕府から続く緊張でもある。

 媒介として

 社会的ヒステリーとパニックを日本人に起こす要因として,火事と地震があげられる。経済的圧迫がある時期,これらは社会的混乱を引き起こす効果がある。火事も勿論必要だが,地震の効果に比べたら比較にならない。

 状況

 日本のすぐ地下層には不安定な地震層が多い。それは考えられない破壊をもたらす。もし引き金を引くなら,地殻変動的なものになる。地震層は数百万人の命を奪うことになる。この地震層に大小様々な爆発物を埋め込むことによってその距離も正確に割り出されている。最近の原爆によって人工地震は勢いづき,一層人工地震にはずみがつくことになる。もし地下深く原爆が仕掛けられるなら,放射能は現れない。この原爆およびさらなる大規模な爆発物は原爆による放射能によりもたらされた日本人の地震と言う恐怖感を増幅させることになる。

 使われるべき装置

 雑誌:全てのメディアに挿入される日本人科学者によるある種の暗号により痛ましい地震は解読可能である。原爆使用による人工地震のフィジビリティ研究はすでに終了した。ある日本人地震学者の地震は起きるという偽造文書による協力もある。暗号はラジオによっても知らされる。沖縄の基地から中波によって直接日本本土へ送られる。日本のラジオ放送を邪魔するものであるが,それによって起こるべき人工大地震を事前に知ることが出来る。特に日本政府が地下産業で働くワーカーを保護,避難させるためのものである。<管理人翻訳終わり>

 OSSのBlack Propaganda

 これが神戸大震災,今回の新潟地震,および事前に人工地震を知ったむきが北野建設やPS三菱を事前に仕込み売り逃げた裏事情であります。

国のリーダー(首相,大臣)を徹底的に糾弾しある時は死に追い込む。これは国のリーダーは誰も信じられないという不安感をかもし出すには充分である。一日88人が自殺をしていくことに端緒に現れている。そうしている某民族がだれであるか他言を要しまい』

大室家

以下に記すものは、ある情報提供者 ── 仮に「G氏」とでもしておきましょう ── が私に対して、匿名条件にホームページへの公表・掲載を希望してきたものです。内容的には、大室寅之祐(明治天皇)の出自が主ですが、それ以後の皇室についても言及しており、ある種「爆弾発言」と言えるものを孕んでいます。尚、私は以下の内容について一切検証をしておらず、「G氏」の文章をそのまま掲載しています。ちなみに、私の見解はどうなのか? ある部分に対しては肯定的、又、ある部分に対しては否定的に受け取りましたが・・・見解については留保させて頂きたい、と言うよりも、以下の内容を読まれた読者の皆さん一人一人の判断に委ねたいと思っています。


最後に、長文ですので、心してお読み下さい。又、以下の文章は、私の筆によるものではありませんので、ご質問には一切お答え致しかねますし、ご批判の類に対しても一切の責を負いかねます事を予め表明させて頂きます。



竹下義朗


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橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇)の秘密についてお話します。(こっそり)




◆山口県田布施町の大室さん




そもそも、田布施町のタブー(この事)については、(大室寅之祐について)田布施の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤、岸すら知っていたが、「うち」の爺さんが「大室家が南朝の末裔で500年以上続いて、しかも寅之祐が大室家23代目なんて嘘だ!」と言ってた。始め意味が分からなかったが本質は 1.寅之祐が本当に南朝光良親王から23代も続いているのか? 2.本当に寅之祐の親は大室弥兵衛なのか? と言う事であった。その後、大室家(後大室家)は1794年から始まり、頼山陽によって、大室家の家系図が整備された。


文政時代に初代大室家当主が死去。だから、大室寅之祐の代で、後大室家5代目に当たる。


さて、大室寅之祐が作蔵の息子で行方知らずになる1866年8月頃迄戸籍名大室寅吉(通名(普段使う名前)は大室虎吉)(とらきち)である事も判った。芸者連れて1867年12月、田布施に帰ってきて「虎吉改め、寅之祐が・・・」となる訳である。


(そう書かれた木簡が出てきた。)(「K」先生の本より)


大室近祐がワカルといってもせいぜい1866~1867年頃迄であろう。だから大室家が光良親王(1400~)から23代500年も継続してる。とは嘘である。(500年以上も前の話等分かる訳無い)


これを踏まえて本当の所は、苗字も無い作蔵と興正寺基子(SUEKO)=スヘ(1831年5月1日~1855年11月20日)が結婚した年は1846年5月頃でスヘ15歳の時である。だから1845年頃迄には興正寺昭(照景?)とスヘが田布施麻郷西円寺に京都浄土真宗興正派、興正寺から来てないといけない。(スヘは興正派門徒の娘)作蔵(1824年?~1887年5月頃?)と結婚し、1年後、スヘ16歳の5月頃、長女(1847年4月14日生まれ)を出産した。1850年1月10日(戸籍では庄吉の誕生日になっている)に寅吉(普段使う通名は虎吉,後の大室寅之祐)を出産。この頃(1849年頃)作蔵が西円寺の東隣の麻郷「G」に家を建てる。だから「G」の地名を苗字にした。(「G」とはそもそも村の中心地と言う意味)


http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=33.55.47.426&el=132.3.10.064&sc=4&la=0&CE.x=128&CE.y=304

1852年12月(戸籍では寅助の誕生日になっている)庄吉(通名は省吉)出産。1854年2月29日に三男X平出産。(俺の高祖父)


>>その後、1854年初頭(5月頃?)に作蔵とスヘが離婚。長男寅吉、次男庄吉をスヘが引き取り、多分西円寺の実家?へ戻る。 大谷(興正寺)昭(照景?)の家か?? (京都には帰ってないであろう)


1854年下旬(10月?)独身の大室弥兵衛30とスヘ結婚。大室寅吉、大室庄吉となる。1年後、大室弥兵衛とスへ(24)の間に大室寅助(1855年11月頃~1857年6月22日)が生まれたが直後、スヘが産後のひだち悪く肺結核で死亡。(西円寺池で入水自殺か? 大室近祐説?)その後、大室弥兵衛と文右衛門の娘ハナ(1815年12月5日生まれ 当時40歳?)が再婚したが寅助の方は2歳弱で病死。文政時代に初代大室家当主が死去してから5代目と思われる大室寅助死去により大室家断絶。


そこから先は、新国民社刊『裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の真実』に書いてある通りなので省略。1866年6月~8月には既に大室寅吉(寅之祐)は行方知らずとなったのであろう。(麻郷村の人間が手分けして探した)


大室寅之祐の子が昭和天皇であっても大正天皇の父は多分、田中光顕であろう。(大室近祐による。高松宮発言:昭和58年)




◆行方知らずになってから(1866年8月以後の大室寅吉)




 情報 1.


京都の上賀茂神社って知ってるでしょ。毎年9月9日に烏祭(からすまつり)ってのがあるんだけれどさ、このお祭りで奉納相撲が行われるんだけれど、この奉納相撲の記録ってのが残っているんだ。(記録って言っても寛政4年以前は残っていない)


この記録には慶応2年(1866年)の奉納相撲の出場者の中に「村岡権七、名和小一郎、天野才五、西沢半次・・・・」って続くんだけど、その中に、「大室寅介」という名前があったぞい!


まさか「大室寅之祐」の事かいな?どうなんでしょ?


 情報 2.


新撰組が長州の不良力士達を殺害する事件があったのは慶応3年10月29日。沖田総司が殺害した力士の中に大室虎助の名前があった。


下鴨神社蔵の「神楽勧請録」の慶応3年の記録には、「大室虎助(中略)等、同年10月29日、新撰組ガ為二被害」とあり、新撰組側の記録にも「(慶応3年11月)先日、長州の不逞力士5人を誅す、残党なお洛中に潜する無し」(『慶応洛中日記』・『会藩新兵余話』・『新撰組遺事』等)とある。


その後、大室寅吉(寅之祐)は新撰組に斬り殺された、と言う事になっていと。


 こんなのあったよ!


http://www.linkclub.or.jp/~rkamei/bakumatsu/bakumatsu.html

大室寅之祐の母スヘの実家が興正寺だとしたら何か関連があるのかもしれない。(母の実家、興正寺を革命のアジトにしてたのかも知れないし、麻郷に徳川の柳生の忍者跡があった様に、佐幕派が不良力士達を監視する為の施設が京都興正寺周辺にあったのかも知れない。こう考えると正しく明治維新は革命だったと思えてくる。この辺を調べない事には幕末の歴史、動きが分からなくなってしまう)


 不動堂


木津屋橋は堀川に架かった橋で七条通りの二筋南。この橋の東西の通りを木津屋橋通りと言う。油小路は南北の通りで、この付近は現在の堀川通りの一筋東。木津屋橋通り油小路の南に不動堂がある。現在の不動堂は油小路塩小路の南の小堂になっているが、旧幕時代は境内の敷地も広く、有名な不動堂であった。


慶応元年(1865年)9月末、この不動堂村に新選組は京都の最後の屯所を置いた。推定 3,700坪と言う大名屋敷並の豪華な新築で、幹部は個室を持ち、30人程も入れる大浴場もあったと言う。


 木津屋橋油小路


不動堂村屯所の筋向かいの興正寺の下屋敷に近藤勇は妾を置いていた。此処に慶応3年(1867年)3月に新選組から離れた伊東甲子太郎を近藤が招く。計画された暗殺である。同年11月18日、近藤勇、土方歳三、山崎烝、原田左之助らが集まり、酒宴となる。帰り道伊東が木津屋橋通りを東に謡曲を歌っていた所を、大石鉄次郎が槍で伊東の喉を刺した。伊東は刺されながらも刀を振るい男を切り伏せる。しかし、深手を負い、東の本光寺門前で倒れ絶命した。伊東の死骸は七条油小路の辻に引きずられ置き捨てられる。これを引き取ろうとして駆けつけた御陵衛士7人もまた新選組隊士40人に囲まれ斬り合いになる。藤堂平助ら3人が斬殺される。藤堂は新選組の前身、試衛館からの同志であったが、伊東について隊を離れた人物。この殉難を恨んだ衛士側は、12月18日、伏見街道の墨染で鉄砲を用いて近藤に重傷を負わせた。


 情報 3.


山口県萩市の萩八幡宮の「延命寺燈篭」には、「万治参年・・・大室寅助」の名前が刻まれている。ただ、万治3年と言う年は本来存在しない。計算上は慶応3年という事になるが。


西円寺にも「延命寺石灯篭」あったで。


>>万治(慶応)3年は西暦1867年に該当。


万治3年は「慶喜に応じる」という意味にも取れるので、長州では慶応の前の年号である「万治」を使用していた。延命寺(えんみょうじ)は天台宗東叡山寛永寺の末寺だったので、慶応3年5月に倒幕派によって焼失。 ちなみに幕府が慶応の次に決めていた年号は「延寿」。出典は『後漢書』「王允伝」より。


そして、大室寅吉(通名虎吉)は1867年12月田布施に帰ってくるのである。それが「大室虎吉改め大室寅之祐が芸者連れて田布施に帰ってきて・・」と書かれた例の木簡が出てきた話に通じる。大室寅介、大室虎助、大室寅助、、、と名前を巧みに変えたのは伊藤博文が林宇一や林利助や俊輔の様に名前を変えて変名を用いたのと同じ事。


通史にある王政復古の大号令(1867年12月9日)とはもちろん京都での話ではない。田布施町の麻郷の高松八幡宮の話で今でも三条実美の七公卿が滞在したと言われる石碑がひっそりと残っている。


その後、寅之祐は再度上京。慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いで勝利。1月8日慶喜が大阪城を明渡す。慶応4年1月15日からの明治天皇の伝記についてはドナルド=キーン氏『明治天皇』上巻に詳しい。




◆その他 興正寺基子(SUEKO)=スヘの家柄に関する情報




興正寺(本願寺興正寺派)は浄土真宗では東西本願寺に次ぐ大宗派。


部落問題は天皇制よりも東西本願寺の存在が遙かに大きいよ。西本願寺派の解放同盟との癒着とかさ。


確か、スヘは浄土真宗西本願寺派の興正寺の門徒の娘だが、それと、明治以来の童話問題とリンクはするの??




Q.スヘの父、大谷(興正寺)昭←この人はやはり高松松平家の血統ですか??


A.(徳川家康→水戸頼房→高松松平頼重→女子(興正寺由常室)・・・興正寺昭ースヘ)




Q.と言う事は今の天皇家は浄土真宗興正寺派(西本願寺)の血統ですか??


A.と言う事になりますな。結論から言えば。




Q.そう言えば昭和天皇の母方の九条家も確か大谷家の血縁でしたっけ??


A.そうです。




Q.大谷(興正寺)昭←この人がスヘを連れて田布施の西円寺に来て親子で住み着いたという説は?


A.正式には同じ浄土真宗本願寺派の西円寺に赴任した。




Q.高松松平頼修と言う人はいませんが頼寿(貴族院議長)の間違いですか??


A.間違いではありません。




 (続き)


Q.僕は愛子の実の母は橋本厚子説を取るがどうして先生は橋本和子と言えるのかその根拠を教えて頂きたい。


A.極めて信頼の置ける医療関係者筋から「愛子内親王の実母は●●●和子氏」との情報が多数(100件以上)寄せられております。




さて、では逆に質問。愛子内親王の実母=橋本厚子説の根拠をお願いします。




Q.元々、大室家と高松松平の繋がりは何処から(何時から)来てるんだろう?


A.これは高松松平頼修公の出自と関係しますが、頼修公の祖先は高松頼常公(光圀の唯一の子)であり、公式には二人の男子がありましたが、どちらも夭折しています。(恐らく謀殺)




これは水戸家の家督争いが関係しているますが、高松頼常公には死後に生まれた男子は長州藩に匿われ、育てられたためです。なお万千代君の母親が長州藩の出身です。


 (興正寺家)


毛利元就 ─ 女 ─ 宍戸元秀 ─ 女(小早川秀秋正室・後に興正寺准玄室)─ 准秀昭超・・・・・・スヘ


新撰組の屯所は、西本願寺内に置かれたが、これも西本願寺が、「勤王方」と見られていた事に対する嫌がらせと見張りや牽制の意味が有ったのだろう。


幕末の動乱期、慶応3年既に徳川慶喜が大政奉還を表明しているにも関わらず、幕府に対して、「家康公以来の恩義を受けて、今日あるので末寺の門徒、僧侶による軍隊を編成して、幕軍の指揮下に入りたい」等の申し出を行っている。が、慶応4年の戊辰戦争の勃発で時代の潮流を感じたのか突如、厳如は妻和子の兄に当たる勤皇派の山階宮晃親王を介して「徳川家の義は軽く、天恩の義は重く門末挙げて、勤皇に尽くす」と言う一札を朝廷に差し出し、以後態度を急変、御所の警護や討幕運動の資金調達に全国を走り回ったのだった。


佐幕から、勤王へ路線を変更する事で教団の組織維持を図った訳だがこの事は明治天皇のおかあちゃんが興正寺基子(スヘ)で浄土真宗東西本願寺に影響があった人だが、何か路線の変更にその繋がりから影響が有ったのだろうか??


これでやっと謎が解けたね。


前に寅之祐は西円寺で生まれたとか言ってたよね。しかし、何故、作蔵の家では無くて、西円寺なのか疑問だった。昔はお産の場所に寺等を借りる事も有ったのかと思ったがそう言う事は無かったらしいし。つまり、西円寺は作蔵妻スヘの実家だった訳だ。実家で出産するのは当たり前だもんね。一代で財を成した作蔵が西円寺の東隣に家を建てた。そこで西円寺の寺娘のスヘと知り合い、恋愛して結婚した。そして、生まれたのが寅之祐、庄吉、X平だった。スヘの父親は大谷家の血筋で、何かの理由で西円寺へ下向した。こう言う経過なんだね。




◆作蔵について(人生何があるか分からない)




作蔵は22の年の21の時、スヘ(何と15歳)と結婚。寅吉(後の大室寅之祐)はスヘ18歳、作蔵25歳の時の子。だから作蔵とスヘが夫婦仲悪かったから結果的に離婚出来、30歳の独身、大室弥兵衛(作蔵と同じ年であろう)と再婚出来、寅吉が大室家の南朝神話を利用して京都明治天皇とすり替わって東京明治天皇になる事が出来た。


孝明天皇と中山慶子の間の本当の明治天皇は流産した。だから京都明治天皇もすり替えでしかも虚弱体質で岩倉が使った医師によって毒殺された。


一方、スヘも弥兵衛との間に一子儲けた。(スヘ24歳の時)これが本当の大室寅助だが虚弱体質で1歳数ヶ月で早死。それより少し前、スヘも病死。この時、寅之祐は5~6歳だった。後世、明治天皇の女癖が悪かったのは母親の早死による女性の愛情不足からだろう。40歳と言う異例の高齢オンナフミウエモンの娘ハナと大室弥兵衛が再婚したから寅之祐はこの継母(ままはは)に育てられた。


さて、作蔵の職業を祖父から聞いたのだが、作蔵はパワフルで海の男みたい。廻船業で明治20年、死ぬ迄その職で有ったらしいのだが、多い時で15人位の部下を持ち2隻の船を使って、屋根瓦を屋根にくっ付ける時に使う粘着剤の役を果たす特殊な泥(上手く日本語で説明出来なくてスマソ)を田布施町から愛媛迄運んで(時には大坂湾迄運んだ)利益を得る廻船業者と言う仕事で営んでいたみたい。1849年頃? その利益で既に25歳と言う若さで西円寺の東隣斜め上チョイの所に家をぶっ建てた。


当然、刺青していて、体格は明治天皇よりごつくて光格天皇の様に背も高かった。1849年以前は違う所に住んでいたみたい。だから1849年以前の我が家の足取りは不明。(何処の寺の過去帳調べたらよいのやら)


「G」と言う所に家を建て間も無く寅吉(大室寅之祐 1850年1月10日)が生まれた。だから地名を自分の家の苗字にしたみたい。「G」の名前の由来は「村の中心」と言う意味。西円寺から麻郷小(明治5年創立)に行く途中ゼンリンの住宅地図に小さな文字で「集会所」と書かれた所があってそこが昔の麻郷村役場だった。


明治20年に作蔵の死と共に家業は百姓一筋になった。(作蔵の位牌は明治20年柳原愛子が作蔵の葬式の時、東京に持って帰った)葬儀は西円寺。だから、作蔵の位牌も無いし、お寺の過去帳にも作蔵の記載も無い。明治20年柳原愛子が田布施に来た(「K」先生)目的は作蔵の葬式の為に西円寺に来る為。帰り女官の一人が大室天皇の秘密を漏らした事に愛子が激怒。刀で某女官を斬り殺した。


京都に帰り立ち寄り(興正寺)、スヘの位牌も柳原愛子が東京に持ち帰ったが戦災で焼失。こちらは位牌は無いが過去帳に記載有り。興正寺の過去帳によるとスヘの法諡は「謙徳院殿叡仁基成大姉居士」。最高の法諡らしいのだ。(「K」先生調べ)


僕の高祖父XX X平が馬鹿でその後、友達の連帯保証人になった。友達が夜逃げして借金踏み倒したから一晩で「G」家の家、屋敷財産を分捕られた。その後、僕の曽祖父が優秀で麻郷村村長迄上り詰め、取られた土地、家資産(山林等)を自力で取り返した。


曽祖父は多分黒手組だったのかも知れないが、ゼンリンの住宅地図見ると田圃(たんぼ)の貯水池が沢山残っているがこれは曽祖父の代に曽祖父により作られた。その他曽祖父が作った道路も有り、石碑が残っている。


◆大室庄吉の子供たち




長男 儀作 (明治19年11月23日生)
長女 モト (明治 4年 1月 8日生)
次女 タカ (明治 8年11月24日生)
三女 ツネ (明治11年11月 1日生)
四女 ヨネ (明治14年10月24日生)
五女 ツユ (明治17年 6月28日生)
次男 音吉 (明治22年 9月26日生)


俺の爺ちゃんが天皇の医療団の一人だったんだが、当時の天皇(つまり明治天皇ね)から色々と品を頂戴したんだけど、その中に「長 ●●●家系譜」(●は塗り潰されて分からない)と言うのが有るんだ。透けて見ると「大」の文字が最初にくるので、こちらで話題の大室家の系譜かも知れない。どうせ嘘だと言われるでしょうけど・・・。(ワラ)


◆長州大室家系譜?




Q. 大室と「K」先生の弱点は大室寅之祐の父、大室弥兵衛から南朝光良親王迄の大室家の家系図が欠落してる点で、もし宜しければ詳しく教えて下さい。


A. 私には価値がよく分からない。本物かどうかも分からない。そもそも、天皇から拝領と言う事すら眉唾もの。ただ、天皇からの拝領品の中に一緒に収まっていただけなんです。他にも山県有朋やら伊藤博文やらの手紙も幾つか有りましたけど、こちらは公共の機関に譲渡しています。


系譜は江戸時代初期詳しく言えば徳川家康の死去年(1616年)からみたいです。その後、水戸系高松松平頼重と続いていきます。ただ、文政年間から幕末にかけては故意かどうか削除されています。一応、幕末の記録帳に、


「長 大室虎(ママ)之祐」
と書かれている様です。昔の字体だから、よく分からないです。こう言った史料は何処で見て貰えば良いの? (初代の頃は「大室」では無い違う苗字になってます。)

やはり、旧字体ですから何と書かれているのやら。ただ、南朝云々と言う話があるそうですが、初めの由来書?(「由緒書」と大文字で書かれています)には、


南朝後○○天皇ノ●●●(中略)忠臣北畠師親息女●●●(中略)ト光良親王ハ敵地に進ム。(以西ハ北朝ナリ)消息知レズ。系譜ハ元和弐年ノ始祖「麻郷(後ニ●●ト改メ)」ヨリトシ、後裔ノタメニコレヲ残ス。

(○○はここだけ旧字体なので分かりません。●は削除されています)

この事?ですか???(「K」先生の本より)

この時、96代後醍醐天皇が北畠師親の娘源親子に生ませた王子・征東将軍宗良親王の曽孫、光良親王も城内に居たが、師成親王と共に乗船して周防へ下向した。船内には熊毛郡の住人で余田村(柳井市・・・・


系図はその後も続いていますが、うーんどうなんでしょう。書いてあると申せば書いてある様ですし、無いと申せば無い共。兎に角、読み辛いのです。しかし、「長 大室虎之祐」 の隣には、「省(ママ)吉」(国賊ノ名ヲ改メ) とあります。こちらも横枠にごちゃごちゃと書いてありますが、読めません。


先程、父に聞きましたが、正確には天皇からの拝領物では無く、曾祖父が医師を辞した時、伊藤博文(?)から長年の功績に報いて色々な品々を頂戴したそうで、それは天皇の御意志でもあったそうです。それと系図については、曾祖父がさる高官から命じられて作ったそうです。それが不要の長物となったので、返却されたと言う話です。その時に「処分する様に」と言われたそうですが、折角の記録で有るからと一緒に締まっておいたそうです。この事は先程聞いて初めて知りました。


私は日本史に疎い方でして、皆様より関心の度が無いのです。お話から歴史の裏の部分を証明する資料なのかも知れませんが、私には蚊帳の外の話しでして。叔父からの話でも、「昔は天朝様にお仕えしており、色々な物を下賜して下さった」 と言った程度の話しか聞いておりません。資料についても色々と考えてみますね。


それと横枠に朱字で、


「故アッテ抹・・・(中略)●●ニ京●●●●●家ノ●子トナ・・・」
とやたら長く文章が書いてあります。(●は読めないだけで削除文字ではありません)
追加(年号)ニ京闕生名倭人家ノ養子トナル>>作蔵の妻が長男虎吉、次男省吉、幼い二人の子を引き連れて、作蔵と離婚。後、作蔵の元妻が大室弥兵衛と再婚。つまり寅之祐は「G」家から大室家(京闕生名倭人家)の養子となった訳。書きたいのは山々なんですが、私には読めません。


系譜の最後に、


「明治三十二年六月 改  ●●●●●」(●は自分の曾祖父の名前なので削除します)
と書いて有るのは読めますが、どうやら表紙など一部を改めらしく、内容の殆どは昔の字体です。素人の自分には読めません。大室と言う姓ですが、他にも記してあるのかも知れませんが、幕末の大室さん以外は分かりません。正直見てみないとわかりませんよ。滲んでいますので。ただ、「虎(ママ)之祐」と言うのは間違い無く書いてあります。他にも朱字で書かれている箇所がありますが、そちらの方が詳細に書いてあります。後、この後も大室家系図は続いています。此処から派生して色々な系譜となっているみたいです。一応、自分が受け継ぐ事になっていますが、まだ親父の物なので公開については相談してみますね。

案外、誰でも天皇になれるんだよね。ただし、5~6代くらいかかる。3代で総理、5代で天皇と言う訳。


ステップ1.


1代目
市議会議員から県会議員。国会議員(参議院議員)から衆議院議員(小選挙区)
当選1~2回位で死亡。息子に地盤を譲る。 (昔なら男爵から子爵になった所で死去)
(若しくは薩摩藩家老調所(1万石)に当たる。おゆらに当たる。作蔵さん、スヘさんに当たる。若しくは大室ヨネ、橋本卯太郎に当たる。田中角栄位か?)


ステップ2.


2代目
衆議院議員の地盤を父から譲り受け当選10回位迄か??
当選3回で政務次官から当選5回で大臣当選8回で大蔵大臣、当選10回で派閥の長、若しくは都知事か衆議院議長。あと一歩で総理大臣になれる所で死去。息子に地盤を譲る
(昔なら子爵→伯爵→侯爵(公爵にはなれず) 徳川御三家位? 国持ち大名位か? 島津久光、若しくは大室庄吉、若しくは橋本龍伍に当たる。 田中真紀子位か安倍晋太郎位か? 石原都知事もこの辺りか?)


ステップ3.


3代目
父の地盤を引き継いで総理大臣迄上り詰める。(昔なら侯爵から公爵へ)
ここ迄3代100年かかる。
(権力が最大ピーク頂点迄行き着く。徳川将軍位か? 島津忠義、大室儀作、橋本龍太郎に当たる。田中雄一郎位か? 安倍晋三位?)


ステップ4.


4代目
朝香宮・東久邇宮・竹田宮・北白川宮等の皇室よりかなり遠い旧宮11家に相当。
(島津忠義の息子朝香宮、大室近祐に当たる。橋本龍太郎の息子位か?)


ステップ5.


5代目
三笠宮・高松宮・秩父宮等の直宮家に相当。
(朝香宮と九条節子の間の三笠宮タカヒトに相当。大室近祐の息子、徳川恒孝に相当。橋龍の孫位)


ステップ6.


6代目
(上がり)天皇
(此処迄150~160年位かかる。但し、4代~6代迄は権力が弱まり象徴化する。明仁天皇、徳川恒孝の息子広飲み屋、橋龍の曾孫辺りか?)


1400年、南朝系の皇子光良親王が大内弘茂に連れられて麻郷にきた時、周坊はこんな状況だった。

大内義弘(弘茂の兄)は幕府の依頼により南北朝の和解を周旋した。義弘が南北朝の間を取り持ったのは、彼が南朝の徒党と近い関係に有るのを見込まれたからである。南北朝末期や室町時代の南党は土地に固着しない賊党的乃至海賊的稼業を行って渡世する外無くなり、南大和の天険に出入りしながら広い連絡を各地と保った様で有る。当時、内海の海賊も漸く大内氏の統御に入りつつあり、明徳の乱(1391年)後は、紀伊・和泉の賊党も同様の関係に入って来たのでる。南北朝の合一も、大内氏の豪強も、その不可解と見られる反幕的画策も、共にこうした反逆児的な南党と結びついた因縁を無視出来ないと思われる。(福尾猛市郎『大内義隆』日本歴史学会編)


尾張家の「玉」は桂宮家分家の広幡氏
水戸藩の「玉」は有栖川宮
長州藩の「玉」は山階宮
島津藩の「玉」は中川宮なれど、朝廷、幕府、さらに明治政府も翻弄した「悪玉」
紀州藩の「玉」は北朝では伏見宮家。南朝では浅利氏
徳川幕府の「玉」が日光宮こと東武皇帝




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高松八幡宮で王政復古の大号令が発せられたと言う鹿島説は本当の事。(昔、爺さんに聞いた事有る)それと何処だか忘れたが島津久光の軍が進駐した場所も有った。(解決黒頭巾に聞いて)西郷隆盛や三条も一時宿泊し、滞在した跡が麻郷には今も残っている。


>>法号の記載のあったお寺は西円寺なの? それとも違う寺かなあ?(「K」先生に質問)


現在は京都興正寺(浄土真宗興正派)に有り。


本名「興正寺基子」(こうしょうじ-すえこ)。始めは末子、季子、後に基子。興正寺(浄土真宗興正寺派)門主一族の出身。位牌は不明で無ければ「謙徳院殿叡仁基成大姉居士」等と最高級の名前は贈られ無い筈。位牌は明治20年に東京に持ち去られ戦災で消失? 但し興正寺には過去帳は残っており、スヘ様の存在と法諡が判明。


大室庄吉(近祐氏の祖父)が奇兵隊所属の力士隊に大室寅介(虎助・寅介)と言う名前で参加しており、明治維新後、奇兵隊の残党として下関宰相に投獄されていた事が判明。(『萩東照宮文書』)




 調査結果




寅之祐の弟庄吉の長男儀作 次男音吉 儀作の長男近祐 次男勝 勝の長男憲之近祐の長男照明 次男弘樹 弘樹の長男貴雄


近祐の息子徳川(大室)つねなりの長男広飲み屋、庄吉の娘ヨネ、ヨネと橋本卯太郎の間の子橋本龍伍、ヨネの胤違いの息子和田恵三郎、和田恵三郎の娘迪子。迪子と徳川恒孝の間の広飲み屋。


以上 田布施町戸籍課 




 調査結果




(天皇家)光格天皇の弟 仁孝天皇(真実は光格天皇と仁孝天皇は兄弟ですら無い)


仁孝の息子孝明天皇 慶子が流産した明治天皇1 豆腐屋の息子替え玉明治天皇2 大室寅之祐の明治天皇3 寅之祐の息子大正天皇 、昭和天皇 秩父宮(二人とも母は貞明皇后) 高松宮(母、松下トヨノ)


朝香宮鳩彦の息子三笠宮崇仁 三笠宮嵩仁と良子(香淳皇后)の間の平成天皇 明仁と美智子の間の秋篠宮。紀宮は父明仁、母は美智子皇后では無い。


徳川ツネナリの息子広飲み屋 明仁と女官の間の紀宮 紀子と秋篠宮の間に子四人 内二人は堕ろされる。残りの二人が眞子・佳子。


常陸宮は徳川某の子。三笠宮寛仁 高円宮 桂宮 は三笠宮嵩仁の息子。(北朝)


(大室は南朝)


以上 田布施町戸籍課 




 情報を整理すると




高松宮が昭和58年8月に田布施町に居た事が証明されれば、大室=明治天皇の疑惑は一気に高まると断定して良い訳だな。そして、その真偽を知っている者は、当時の宮内庁職員、田布施町役場職員、及び政府首脳。此処迄、情報は狭められた訳だ。


田布施に来た高松宮の目的は昭和天皇に頼まれたから・・


明仁(今上天皇)が余りにも女癖悪いので大室貴雄を皇室の養子に呉れないかとの相談に来たが近祐が断った。高松宮の情報では明仁は三笠宮嵩仁と良子の間の子(血液検査で判明)だから昭和天皇は秩父宮に譲位したかったらしい。


広飲み屋は近祐の息子徳川恒孝の長男で岸信介が養子にした。(昭和34年)勿論、昭和天皇も御了承済み。宮内庁の下の人間には昭和天皇の成子と東久邇宮盛厚の間の子が広飲み屋と言う事にして納得させたとの事。宮内庁でも下の人間は大正天皇が徳大寺の子で昭和天皇も毛利元徳8男西園寺八郎の子と言う事になっているが、これも嘘で宮内庁上層部及び田布施 柳井関係者(大和町民も)及び佐藤栄作、高松宮の情報から大正天皇は寅之祐の子で昭和天皇・秩父宮・高松宮全員、明治天皇の子で父が大酒飲みだったので全員子種無く子が出来無かったと言う。


大室家滞在中の高松宮の様子はお忍びなので幼稚園児大室貴雄が宮様の膝の上に乗っかったり正にアットホームな雰囲気で堅苦しさ無し。


寅之祐は1850年1月10日生まれ 一条勝子(昭憲皇太后)と同じ年(勝子の生年は戸籍では年上になってる)


勝子は京都明治天皇の妻だが余りに阿呆だから愛想尽かしてたとの事。寅之祐と再婚して大層、寅之祐に惚れ込んでその代わり嫉妬も人一倍で女官に寅之祐が手をつけ子が出来ると次々暗殺したらしい。


以上 高松宮発言から(1983年) 




 一部紹介します




「大室寅之祐が明治天皇になったと言える勇気を持とう(復活版){このスレ開いて>>1にあるURLをクリックすると880レス読めます。}」と「大室寅之祐が明治天皇になったと言える2」を読んで見て下さい。内容は衝撃的で、橋本竜太郎の祖母の父、大室庄吉の兄大室寅之祐が明治天皇になったと言うもので、2000年8月の雅子様懐妊の真相は実は橋本竜太郎の長男橋本竜の次男を雅子様、広飲み屋の間の子としてこっそり養子にしようとして失敗した・・・等凄い事が書かれておりマスコミタブーも有り衝撃的でした。一度目を通して見て下さい。


じゃあ、明治天皇は130年以上も前の話だから、一度余所に置いといて、2000年8月の雅子様ご懐妊、騒動は何だよ。


TBSの報道番組で産婦人科医が出て来て、「妊娠8週目でレントゲン検査して胎児の姿が確認出来ず。(公式な宮内庁発表) と言う事は、有り得ない。雅子様は妊娠しておられ無い!!」と泣きそうな顔で話していたのを、テレビで観たぞ!!


一説には、橋本龍太郎の長男、龍の次男を雅子様、広飲み屋の間の子と言う事にして、株価上昇に利用しようとしたが、雅子様が余りにも嫌がられるので失敗したと言われている。この情報の出所は、何と宮内庁では無く、首相官邸と言うでは無いか!!!


当時、小渕は「2000年8月に太陽が、二つ昇る」と言った事は、有名だけど一つは景気の回復。もう一つは、???


小渕が橋本と共犯で、雅子様ご懐妊騒動仕掛けたと伝えられるが???? もしこれが事実なら、大変な事だぞ!!


橋本は大室と遠い親戚だから、佐藤栄作に自民党公認にして貰って26歳の若さで初当出来たと言うじゃないか。


案外 >>1問題タブーも未だに引き擦っているんじゃない!!!


大体、2000年8月の御懐妊騒動って何だ?


>>そりゃそうだろう。雅子様もまさか自分が妊娠もしていないのに、2000年8月に自分の子供が生まれて来るなんて夢にも思っていなかったのだから。(小渕発言後、自分が2000年8月に子供を出産する予定になっていた事を知って、雅子様は部屋に引き籠もり成され、広飲み屋以外の人間とは口もきかなくなって、人間不信になられた一連の騒動の事。)




橋竜の家の系図誰か教えて 勿論!!!!!!




大室寅之祐の弟、大室庄吉の女(むすめ)大室よねが、サッポロビール常務 橋本卯太郎の家に居候して女中になる。此処からが、始まり始まり。


既に卯太郎には本妻 真都(マツ)の間に4人の男の子と1人の娘が居た。明治39年、卯太郎が大室よねにお手付きして出来た子。それが橋本竜伍。(5男だから竜伍。竜伍の下に1人の弟と1人の妹あり) 竜伍は東大を主席で卒業した後、吉田内閣で大臣3回経験。竜伍の長男が橋本竜太郎。腹違いの弟 大二郎。竜太郎の妻 久美子夫人との間に2男3女。(他、隠し子2人。その内、1人が和子) 子供7人孫10人。先ず上から 長女寛子(2男2女) 長男竜(2男。次男は、2000年8月生まれで雅子様、広飲み屋の養子にしようとして失敗) 次女厚子(三つ子 女の子) 次男岳 三女旦子 結構可愛い まあ、政界一、子沢山でしょうな。一人位、皇室に養子にやっても良いんじゃないですか!。




              徳川家康      毛利元就
                |         |
              興正寺(大谷)   興正寺(大谷)
                |         |
                └─┬───────┘
                  |
         「G」作蔵=基子(スヘ)=大室弥兵衛=ハナ
                  |
       ┌──────────┼────────────┐
       |          |            |
  寅吉(寅之祐=明治天皇)   庄吉         「G」X平
       |          |
       |          |
   ┌───┼───┐      ├─────┬──────┐
   |   |   |      |     |      |
 昭和天皇 秩父宮 高松宮    儀作    音吉     ヨネ
                  |            |
                  ├─────┐      |
                  |     |      |
                 近祐     勝    和田恵三郎
                  |     |      |
      ┌─────┬─────┤     |      |
      |     |     |     |      |
     照明    恒孝    弘樹     憲之    迪子
 (母松平サト子)(母同左)(母後妻静江)          |
            |                  |
            └─────┬────────────┘
                  |
                 広飲み屋


※サトコの父、松平(高松)頼修 ※高松宮の母は松下トヨノ 


    〔愛新覚羅家〕




     康煕帝玄
       |
     抬親王允祥
       :
     (4代略)
       :
     抬親王載垣(1861年死去)
       |
      溥椿(1892年死去)
       |
      毓援(1910年死去)
       |
      恒杰(1933年死去)
       |
      啓葆(1955年死去)
       |
      華齢─┬─橋本龍太郎
         |
         和子(敬宮愛子内親王の実母)




    北朝三笠宮(朝香宮)天皇家




          お由羅の方
            |
          島津久光(父調所)
            |
           忠義
            |
    ┌───────┴───┐   中川宮朝彦
    |           |     |
 朝香宮鳩彦─┬─貞明皇后  偵子─┬─久邇宮邦彦
       |          |
     三笠宮崇仁──┬──香淳皇后
            |
          今上天皇
            |
       ┌────┴────┐
       |         |
     秋篠宮(母美智子)  紀宮(母妾)




◆何故、今、皇室は大室でなければいけないのか?




熊沢家は今の当主が確か娘2人で実質断絶に近い状況にあるし、今の皇室見ると、常磐会を中心とする、島津家(北朝朝香宮の子三笠宮の子明仁)と大室寅之祐東京明治天皇を中心とする南朝大室天皇家(寅之祐の弟庄吉の子 儀作の子近祐の子徳川恒孝の子広飲み屋)と2つある。此等に自民党の権力が複雑に絡み合っているからさ。


政府自民党の支持基盤は3つあって1、郵便局、2靖国、3医者なんだけど、3の医療会の票田を作ったのが武見だったり厚生族の橋本龍伍だった。(大室寅之祐東京明治天皇の弟大室庄吉の娘大室ヨネと橋本卯太郎の間の子が橋本龍伍) 2の靖国及び神社本庁のボス(つまり自民の票田)は村上正邦だったが、歴代総理が靖国万歳なのは明治天皇を奉る事で靖国の票田を自民党が押さえると言う意味合いも有る。(つまり、遺族会の票田)自民党に右翼が多いのはその為で、突き詰めたら大室明治天皇の血統が130年以上続いているから、熊沢家を奉じても何の得にも金にも成らん。だから北朝の孝明天皇に触れる事は出来ても南朝の明治天皇の歴史に触れ難い。明治天皇の息子が昭和天皇でなくなってからまだ14年しか経っていないから明治天皇の歴史はそれ程古くないから共言える。




さて、橋本龍太郎の頂上作戦の話をしなければいけない。


先、書いた通り橋本龍太郎の父龍伍は大室寅之祐明治天皇の姪、大室ヨネの息子であるから本質的には南朝なのかも知れないが、大室ヨネが女性で有るから橋本天皇(半分南朝、半分北朝)とする。で、今、日本を裏で実質的に動かしている5悪は、1.曽根綾子 2.正田巌(日銀を影で動かしている男美智子様の兄、(弟?) 3.美智子皇后 4.橋本龍太郎 5.橋本久美子だが、今上陛下はまだ14年しか経っていないので権力はそれ程無い。広飲み屋にも権力はそれ程持ってない。議員歴39年の橋竜こそバリバリ権力持っていて、常に雅子様の御懐妊騒動を引き起こした主犯がこいつ。


 (続き)


一度目は広飲み屋が結婚なされて3年目の1996年、丁度、橋本内閣の時、自分の孫を養子にしようとして失敗。(長男龍の長男か?)この時はマスコミに公にはならなかった。それより前に自分の娘長女の寛子を広飲み屋と結婚させたかったが、その野望は失敗した。(広飲み屋も寛子もお互い反対したから)


二度目は2000年8月に雅子様が子供を生む予定で流産したが、(小渕内閣の時)この時は長男龍の次男(2000年8月生まれ)を広飲み屋の養子にしようとして失敗。雅子様が公の場に出てこなかった。


三度目は先ず、橋龍の娘隠し子の和子が妊娠した。これが橋本と小泉の総裁選挙の少し前位の時。これに合わせる様に皇居に人工受精の装置が運び込まれ、南朝大室広飲み屋(小泉・森派・安倍・岸派を中心とする自民党右派(右翼)のタマ)のおたねを某女に人工受精させ、今度は北朝今上陛下(宮沢派・河野派・吉田・麻生太郎─三笠宮(信子)秋篠宮・今上北朝派)のおたねを使い某女に人工受精。で、広飲み屋の胤で人工受精した女は先ず、女の子を孕む。だ・か・ら小泉を中心とする右派(右翼)から皇室典範の女帝改正論が急に勢いずく。しかし、この女が流産したから右翼から女帝論が急速にトーンダウンする。


北朝今上派としたら今上が那須に行って東京に帰って来た所で、男子が誕生すると言う計画で、麻生太郎が「皇位は男子に限る」と言ったのはその事。イギリスのマスコミに今上の胤使って某女に人工受精して男の子を孕んだとの情報が漏れる。


一方、橋本の娘和子は女の子を妊娠してこちらが先行した。12月の最後迄、女の子か男の子かともめていたのは北朝三笠宮天皇今上一派(麻生)と橋本天皇の頂上対決でマスコミも男の子と言う事で準備してた。12月に入って少し長引いて最後に橋龍の権力によって和子の娘を愛子とした。広飲み屋は最後、部屋のドアを怒って蹴って出て行かれたと言う。最後に小泉が「女帝は慎重に検討する」と言い出し、みんなが唖然とする。つまり後ろ向きな発言に変化。


佐藤・竹下・橋本派が敬宮愛子・岸・安倍・森・小泉自民党右派(ウヨ)が南朝広飲み屋支持、吉田麻生三笠宮秋篠宮・明仁・宮沢・河野麻生派が今上陛下派、と考えたら分かり易い。小泉・橋本・麻生の3大決戦に皇室も巻き込まれていたと言う事。そして戦いはまだ続いて、今度こそこの3大勢力が、雅子様に男子を産むと言う事で凌ぎを削り、女帝改正には皆が消極的であると言う。2~3年後か?に最終決着が付く筈だ。




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